練習曲作品10-3

狭山ハル

練習曲作品10-3

Chopin Prelude Op28-5

 シャルル・ド・ゴールから成田へ向かう飛行機の中で、今までのことを考えていた。

 あの青春から幾星霜を経て今の自分が居ることはわかっている。だけれども、あのときああしていれば、なんて言葉が心をよぎる。しかし、今の自分が、かつての自分と入れ替わったとしても、きっと同じ決断をしていたと思うのもまた事実だった。今の自分には、今までの道程でしかきっと、たどり着けないのだから。


 静寂が支配する、飛行機の中の時刻は真夜中で。隣の乗客の寝息は深い。窓際に座るおれは、機外の景色を見ようと視線を窓に向けながら、持ち込んだヘッドフォンをミュージックプレイヤーに繋ぎ、再生する。夜明けにはまだ早い外の景色は暗いままで。消灯前にアテンダントに頼んだコーヒーは冷えきってしまっていた。父の住む国から、母の住む国へと飛ぶ十二時間は長く、感傷に浸るには十分すぎる時間があった。長いフライトの時間つぶしに作ったピアノ曲のプレイリストは、感傷に浸るBGMとしては最高の相方で、窓の外、暗闇の向こうを見つめながら過去に思いを馳せ、夜明けを、そして青春を過ごした彼の地への到着を心待ちにするのだ。


 長旅だから、と着古して柔らかくなったワイシャツに、カーディガン、そして何年も履き続けた結果くたくたになってしまったジーンズという、あまり上等とは言えない服に身を包み、そんな服装ばかりしていた学生時代を思い起こす。これもまた乙なものだろう。当時は適当に伸ばしっぱなしにしていた癖毛は、今では定期的に散髪して整えられているし、親友に「ダサいからやめろ」と言われ続けた分厚いレンズのメガネも、すっきりとしたセルフレームのものへと変わった。日本ではアラサーなんて呼ばれる年齢になっても尚、学生の頃の格好が楽だったなんて言ったら怒られるのだろうか。なんて、取り留めもないことを考えていれば、ヘッドフォンの中ではドビュッシーが流れる。


「私、この曲好きなんだよねぇ」

 そう言って笑ったあの子は、元気にしているだろうか。仲のよかった大学の同期、ただそれだけの関係だったはずなのに、卒業からもう幾年も経った今でも、何故か時折記憶の中で彼女の姿がちらついている。授業の合間、レッスンまでの空き時間、練習室でピアノを弾きながら、互いに作曲家達が生きていた時代を想い、そして色々な話もした。淡く心に残るその記憶はきっと、始まることもないままに終わってしまった初恋だったのだろう。その自覚もないままに、当時付き合っていた恋人と道を分かつ事となり、そして彼女とも卒業以来逢うことはなかった。彼女の消息も積極的に知ろうとはしなかったから、今、何処でなにをしているのかすら、知らないのだ。彼女が幸せで満ち足りた生活を送っていれば、と願う事しかおれに出来ることは残されてはいなかった。ヘッドフォンから耳へと流れる音楽は、数曲を経てショパンの雨だれの前奏曲に変わっていた。


 夜明けまではまだ時間がある。おれはゆっくりと瞼を閉じた。

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