外伝「木染月」3


 俺の沈黙に、彼がちいさく息を吐いた。

 喉奥で凍えたままの舌は、甘えを突きつけられたゆえだと理解したがそれでも言葉が出てはこなかった。

 頭を抱いていた腕が去っていく。

 触れ合っていた胸がはなれ、両脚のあいだから熱がひくように彼がいなくなり、そこではじめて立ちあがったのだと気づく。それを意識するかしないかというところでもう、名前を呼んでいた。その声があり得ないほど上擦っていて、急激に頬に血がのぼる。いくら目隠しをされているとはいえ情けない。

 彼は、そういうこちらの羞恥をわらわなかった。

「少しはお仕置きらしくなってきた?」

 どうこたえたらいいかわからなかった。彼が何のために立ちあがったのか探ろうと耳をそばだてながら身体を起こしかけた俺へと、まだおしまいじゃないよ、と叱責の声がとぶ。

「そもそも俺は同意した憶えはないのだが……」

「欄間に縄引いて吊るされたほうがよかった?」

 そんなわけあるかと反論する口を背中から掌で塞がれた。そのまま身体を横向きに倒される。裾をぐいと背中へと捲りあげられたのは善しとしたものか、腰にバスタオルをあてがわれていよいよ危機的状況であると抵抗をすべきなのか、それすらもうわからない。

「前、今のあいだに少し萎えちゃったね」

 とどめを刺すように、わざとこういう言葉を聞かせようとする。それでも帯を解かれながら、汚しちゃわないか心配だったんでしょと言い添えられてしまっては認めざるを得ない。破れかぶれで本音が口をついて出た。

「わかってるなら」

「だって、あなたがおねだりしないから」

「脱がしてくれって言っただろう」

「それはおねだりって言わない」

 むすっとした声で撥ねつけられたが、俺が怒るところではないのか? けれどその手に包まれると文句を言うどころではなくなった。さきほど離れたせいなのか背中からしっかりと抱かれて髪を撫でられながら耳に唇を寄せられると奇妙なほどに呼吸が楽になる。ところがその安堵はすぐさま別の昂揚へととってかわる。首筋にごく軽く歯を立てられただけで肌が粟立つ。尖りきった胸をいつもより強い力で捏ねくりまわされているように感じるのは目隠しのせいか。指のはらで捻りあげるように抓まれて漏れた声は痛みを訴えるものにしては温く、掠れていながらも熱に濡れている。今までも受身で愛撫されることは幾らでもあったが、こんなふうにただひたすら一方的に快楽を与えられるのは初めてで、ともかく腕を自由にしてくれと懇願するが、まだ駄目の一点張りで聞き入れてくれない。向き合って抱き合えばせめてもその肌に唇で触れることができるのに、この態勢ではそれも不可能だ。自由がきかないことより何よりそれが恥ずかしくていたたまれず、とてもつらい。否、俺はこの身の置き所の無さの奥底から、快楽を紡ぎだしている。それを甘い声で指摘され首を横に振って否定しながら、その証拠を相手の手のなかに文字通り握られている。

「もう限界?」

 頭を揺らして頷いた。

 すると、その手が動きをとめた。

「じゃあ、なんて言うの」

 俺は、それをとうに予想して然るべき言葉だったのだろう。だが実際は、ただ喘いでいただけだった。先ほどの「どうして」が耳に再び襲いきたが、どだいなんて言えばいいのかわからない。

「なら、もう少し我慢して」

 これ以上は辛いと訴える覚悟をした俺の右腿を彼が掴んで持ちあげた。次の瞬間、なんとも情けない悲鳴が迸りでた。冷たくてぬるりとしたものが擦りつけられている。身をよじってよせと叫んだが、左脚はもうその重たい筋肉質な脚のしたに敷かれている。一昨日の夜、風呂場で使われた。畳に落ちた浴衣の音の正体が何かわかった。何故あの瞬間に思い至らなかったのか。もう俺はその快感を知っている。それを覚えそめた今、自分だけ風呂にも入らず、こんなふうに自由を奪われて辱められるのは堪え難い。

 この視界で、彼だけが知っている場所がある。そこを探られるとどうやっても堰き止めることの出来ない声が漏れ出てしまう。言葉を選ぶ余裕もなく、汚いからやめてくれと叫んでいた。それなのに彼は、ゴムつけるからとだけ返す。このまま挿入する気でいることに総毛立つ。すっかり恐慌をきたした俺を落ち着かせるためか、彼は背中から覆いかぶさるようにして両腕を胸にまわしてきた。髪が擦れあう。頬に、熱をもった唇が触れる。その熱を、舌が欲しがっている。くちづけを乞うて口をひらいた瞬間のことだった。

「おれは、あなたの依頼人じゃない」

 心臓を素手で掴まれたように息が止まる。

 固まった俺を抱く両腕に力が籠り、痛いくらい強く抱き締められる。そのまま濡れて猛りきったものがゆっくりと腰を遣うようにして背骨のしたへと押しつけられた。

「あなたが依頼人と寝ないのは知ってる。寝たことがないのも。でも、あなたがしてきたのはそのためのものだ。おれは、そうじゃないあなたと繋がりたい……」

 息をするのも忘れた。

 言葉など、とうてい出せなかった。

 いっしょに暮らしてもう数か月こうして抱き合ってきたのに 今までそんなことにすら気づかなかった――不快感や嫌悪感を与えないよう、期待することはしても予想しないことは何ひとつせず、清潔で安全で丁寧で、あくまで礼儀正しくあるよう教わった。

 俺は、

 俺は……

 それでも、何も、言えない。なにを口にしたらいいのかも、わからない。俺はたしかに夢使いだ。そして彼は、依頼人じゃない。そんな当たり前のことが、どうしてか言葉に出せない。 

 俺の凍えたままの唇の横で、彼のやわらかな唇がきれぎれに言葉を紡ぐ。

「おれは、おれしか知らないあなたが欲しい。他の誰にも見せない顔で、聞かせられない声をあげるあなたが欲しい」

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