外伝「木染月」1

 さきほどまで花火に彩られていた闇が明るい月を抱えている。

 せっかくなので灯りをつけず、月光だけを頼りに布団を敷いた。そのまま縁側に据え置かれた籐椅子に腰かけた。師匠の家にいたときは毎日のことだったが、都会へ出てきてからは布団のあげおろしはしていない。しかも彼のほうには上掛けでなくバスタオルをおいただけ。たいした面倒でもないはずが酔っているせいかとてもだるい。早く風呂に入って寝てしまいたい。なんなら彼が出てくるのを待たずに風呂場に押しかけようか――そう考えていたはずが座ってしまったらしばらくはもう動きたくなくなった。


 風が通る。

 どうりで猫が特等席にしているわけだ。


 花火の途中、くちづけてから止まらなくなった。隣りが空き家なのをいいことに三階のベランダで抱き合った。裾を割った手は彼が先だったか俺のほうか――ともかく、持っていた手拭いで事無きを得た。いくらクリーニングに出して返すとて汚してしまってはいたたまれない。


 空き缶や皿を片付けながら彼が、あなたは風呂に入りたいでしょと聞いてきた。入らないのかと尋ねると、暑いから水浴びすると返された。檜風呂なのに、というこちらの表情を読んだのだろう。せっかくの風呂だからこそあなたひとりでゆっくり愉しんでよ、おれが入れておくから、と微笑まれた。それから、風呂馳走とまでは言えないけどと洒落たことまで口にされたので無言でうなずいた。

 ふたりで入ると休まるどころじゃない。そう文句を言ったのを忘れていないらしい。少し悪い気がしたが、俺の長風呂は唯一といっていいほどの贅沢なので遠慮なく甘えることにした。


 風鈴が鳴る。

 ふたつ用意した麦茶、そのグラスに手を伸ばすのも億劫だ。


 猫がいつの間にか傍らへ身を寄せてきた。

 左手のすぐしたに、黒天鵞絨をまといエメラルドで飾られた生き物がいる。

 目をとじたまま指の先だけでそっと撫ぜてみる。すると、ざらりとした舌が指を舐めた。もっと撫でろと強請られたものと見当をつけ掌をその首の後ろへと持っていこうとした瞬間、生き物の熱が去った。


「泥棒猫め」


 ダイニングキッチンの向こうに立つ――その視線が俺を射た。

 手拭いを握りしめ浴衣と帯を腕にかけた彼がそこにいた。


 妙な塩梅になってしまったと思いながら腰をあげる。

 とりあえず、彼の腕でくしゃくしゃになった浴衣の始末を先にしてしまおう。陰干ししたほうがいいと言うと彼はうなずいた。だからそれを受けとるつもりでいた。

 ところが、伸ばした手をつよく引かれてその胸に倒れ込む。浴衣越しでさえ肌の冷たさが伝わった。ああ、ほんとうに水を浴びてきたのだ。そう思う間に左手首も掴まれた。

「おれの見てないところで猫と何してたの」

「なにって……」

 言いよどんだのは、何か硬いものといっしょに浴衣が落ち、それに気をとられた隙に両手が後ろへ回されたからだ。そのまま手首を重ねようとする手に抗うと両袖を一掴みにされた。

 下手に動くと袖が破れるかもしれない。

 袖付けのほつれくらい繕えなくはないがこれは借り物だ。しかも足許には彼が着ていた浴衣が落ちたままで誤って踏むにはしのびない。

「あなた、おれに見られておもいっきりばつの悪い顔したよね」

 耳に注ぎこまれた言葉に顔をあげたが彼は俺を抱きこんで冷たい頬を寄せてさらに続けた。

「この手が撫でるのは香音以外にはおれだけでしょう」

 猫に嫉妬する馬鹿があるかと返そうとした。そのとたん、両腕に兵児帯がまとわりついて総毛立つ。

「何やって」

「昼間のご要望にお応えしようかと」

「あれは冗談だっ」

「今さらそんなこと言われても」

 まさかあんな戯言を真に受けるとは思わなかった。結び目から必死に手を抜こうとすると彼が困ったような顔をして告げた。

「それ、生地薄いから無闇に引っ張ると駄目にするよ」

 確かに年代物なのは知っている。俺が締めている帯もけっして新しいものじゃない。しかも彼の締めていたのは目の綺麗に揃った総絞りだ。その当時でも安くはなかっただろう。

「なら外せ」

「それじゃお仕置きにならないでしょう」

 冗談めかしたふうだが先ほどこちらへ向けた一瞥を思い返すとそうとばかりは言えなさそうだ。

 それに、ベランダの抱擁だけでは物足りなかったのだともわかっていた。手拭いを握った手がそのまま裾をたくし上げようとするのを押しとどめ、蚊がいると口にして離れた。俺から仕掛けたのだが、いくら人目がないとはいえあの場であれ以上のことをするのは気が引けた。彼は苦笑を浮かべ、さすがにここはまずいか、と呟いた。興がのってきたところで拒絶したようでいささか気まずかったのは事実だ。

 こちらの沈黙をどう受け取ったものか、彼は目を眇めて言いきった。

「猫に指舐められてあんな顔して」

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