小咄「言わぬが花火」

 ひさかたぶりに浴衣を着た。

 猫の世話を頼んでいったこの家の主はふだん浴衣や着物で過ごすらしい。衣紋掛にかかっていたそれを彼がはじめに身にまとい、俺にも着ろとうながすので持ち主の許諾もとらず袖を通した。むろん、てきとうに何でも使ってくれていいと言われていると彼が言ったせいだが、洋服ならばそもそも手に取らなかっただろう。

 師匠のお宅にお世話になっていたころは毎年新調してもらっていた。なんとなれば羽織袴も着付けられる。言わずともそれを察した彼がさっさと兵児帯をとり、俺に角帯を手渡した。

 よく似合うね、と彼が目をほそめた。

 照れくさいので聞かぬふりで、上にあがるぞと声をかけた。

 その一歩を踏み出そうとしたところへ、さっきまで遠巻きにしていた猫が脚に身体を摺り寄せてくる。主人を思い出したものかと少しあわれに感じたが、俺はこの黒猫の飼い主ではない。だからいたずらにその背を撫でず、一緒にくるかと問うてみた。猫は珍しく、返事をするように小さく鳴いた。どう聞いても、いやだ、と言っているように聞こえた。


 だから猫をおいて三階にあがった。


 さきほど、じぶんたちの職場、つまり近くのコンビニでビールとおつまみを買ってきた。店長に、見えるのかと問われて彼は、たぶん無理と苦笑でこたえていた。俺は黙ってそれを聞いた。

 このビルの上のほうがましじゃないかとも言われたが、俺はそれに首をふった。ビルの持ち主である叔父に勧められていたのを、俺が勝手に断った。慰労の会でそこを開放するのを弟子から聞いていた。俺たちが邪魔して具合が悪いわけではないだろうが、気が引けた。

 それに、ふたりして同時に休みをもらえたのだからそれ以上甘えるのは性に合わなかった。


 案の定、花火はほとんど見えなかった。隣りの自動車整備工場とその後ろのビルに遮られ、色とりどりの花の形は上半分もあるかどうかだ。それでも、音しか聞こえないと言うほどでもない。

 たまにそれが完全に頭上にあらわれると、俺たちふたりは手を叩いて喜んだ。次はあがるかその次か、いや、この流れだとしばらくは来ないと予想をし、酔いも手伝って見事あたったときにはグラスの縁を合わせて祝杯をあげた。

 それもひととおり落ち着くと、あまり風のない夕空に大輪の花が煙にまみれてひらくのを黙って眺めた。あいまあいまにコンビニのはなしをし、弟子の学校での出来事を教えてもらい(何故か師匠の俺より彼のほうが弟子の日常を知っている)、彼の所属する会やゼミのはなしを聞いた。俺は、ふだんあまり喋らない。それでも居心地が悪くないのだと、彼と付き合ってはじめて知った。中学や高校で女の子とデートしたときは、こんなふうじゃなかった。


 よく繁った木々の梢を見おろす。公園以外で、こんなふうに伸び伸びと育った樹木をこの土地で見ない。街路樹はいつも遠慮がちに梢を伸ばす。それでも、葉擦れの音は泡立つように迫りくる明け方の香音を思わせる。


 花火は少し、魘に似ている。


 もっとそばで大勢のひとたちに紛れて見あげるのも、予約をとって屋形船やレストランで眺めるのも、違う気がした。俺は人混みが苦手だ。彼も好きではないだろう。それよりなにより贅沢をするだけの余裕がない。


 彼の空になったグラスにビールを注ぎたそうと、隣で煙を吐きだす横顔をみた。

 わがままな俺に付き合って、せっかくの休みだというのに半分も見えない花火鑑賞に文句もいわないでいる同居人――俺が言うのもなんだが、変わっている。こんなに整った容姿で学業はもちろん何でも器用にこなし、たくさんの友人に囲まれているのに何を好きこのんで俺といっしょにいるのだろう……。

「あなたが好きだから」

 煙草を消しながら彼が言った。その顔は右隣にある灰皿のほうを向いていた。そのせいで、俺ははじめその言葉の意味をとれなかった。

 缶ビールをもったままの俺に、彼が聞いた。

「ちがった? なんか、そういう顔してたから」

「そういう顔って」

「だから、なんでじぶんと付き合ってるんだろうって顔」

 こちらが喉を詰まらせると、目は口ほどにものを言いと呟いてグラスを傾けてさしだしながら俺をみた。満面の笑顔だった。俺はいつになく乱暴にビールを注いだ。わ、零れると口から迎えにいった恋人の顔をつくづくと眺めた。中途半端に見えるだけの花火より、よほど見応えがあった。それに、透明なグラスに押しつけられた形のいい唇が、どれほど俺を酔わせるのかも知っている。


 この唇で、あなたといっしょならなにもいらない、と囁かれたことが幾度かある。ときに何でもないように、はたまた笑わせるための冗談として、またはこれ以上ないくらい真剣で切羽詰まった表情で。幾度か。

 俺は、そうは言えない。

 夢使いであることだけは捨てられない。逆にいえば、それしか持っているものがない。他には何も、持っていない。

 だから――


「キスしたいの?」

 口許を見つめる視線に気づいたのだろう。そう聞いてきた。そんなふうに言わせられるのは好かないし、この俺が言うはずもない。

「泡がついてる」

 え、という顔をした恋人の頬を引き寄せる。

 その瞬間、頭上高く花開いた。

 俺たちはそれを見逃したことに笑いあったまま、互いを腕に抱きいれた。あとは、音をだけ愉しむことにして。



                         了

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