小咄「明月」
店長とラスボス、
大人のイケナイ恋の秘密とか。
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景気のいい時代に広告業界にいたせいで女優やモデルは幾らでも見慣れていた。その当時、遊ぶ女には困らなかった。そんなときふと、そこらの女優やモデル顔負けのべらぼうに美人ですこぶる頭のいい女子大生と深い仲になった。その後、当然のように妊娠したと告げられて結婚してみたものの、その暮らしは長く続かなかった。理由は俺の浮気だが、相手がひじょうに悪かった。
なにしろ世間でいうところの舅である。しかも政治家だ。
これが、悪くないはずはない。
何も責任逃れのためにこんなことを言い出したわけではない。
風呂から出ると、ベッドの上で腹這いになった男が書棚の奥深くにしまっておいた卒業アルバムなんてものを勝手に引っ張り出して広げているので慌てたのだ。
「何やってるんですか」
こちらの質問に、肘をついたまま前髪をおろした姿で仰ぎ見る。その秀でた白い額と形のいい眉を見おろして、やはり父娘だと感じる自分に嫌気がさす。
「物持ちがいいな」
「そういうのは捨てるに忍びないでしょう」
切れ長の目が熱心に眺めているのは詰襟姿の俺の写真だ。ぎこちない笑顔を見せる同級生たちのなかで、ひとり超然とした顔つきでいるのを見られたのは気恥ずかしかった。高校にいい思い出はない。地元に、と言うべきかもしれないが。
「髭がない」
「当たり前です。高校生ですよ」
初々しくてなかなかどうして可愛いじゃないかという呟きは無視するに越したことはない。
「いつ生やした?」
その質問にこたえるには、少々間が空いた。
「……旅に出てから」
暗い瞳に閃きがはしる。
続きをあごで促され、ベッドに腰掛けた。
「あちらの男性みな立派な髭をたくわえるでしょう。俺も二十歳をこえたばっかで、年若く見られるのは避けたくて。そのままずっと」
学生時代、少しばかり金を貯めて、そのころは貧しくともまだ平和だったある国へと旅立った。そこで撮った写真はコンペで賞を取り、ある有名な時計会社のコマーシャルにも使われた。なにしろ時代もよかった。十分に時間と金をかけて作ったアートのようなものが求められていた。その縁もあって、俺は国内有数の広告代理店に勤めた。もともと広告業界に入るという確たる目標があったわけじゃない。片田舎に住む母親が安心できるような、否、自慢できるような名のある企業に入ることを願っていた。それでも仕事は面白かった。いや、恐らくそうした物事への興味があったのは間違いない。こんな俺にも何か伝えたいことが、表現したいものがあったのだろう――たとえば、春の訪れを告げるアーモンドの花や、それを祝うひとびとの歓喜といったものを。
「……ああいう土地を歩いてきて、その後そこがどういう状況になったか知らぬわけでなく、こんな顔を晒して臆面もなく生きてるのが恥ずかしいんですよ」
どうしてそんなことを口に出したのかわからない。一生そんなことを言うつもりはなかったはずだ。だが、それは本音だった。
「髭は仮面か」
「仮面にもなりゃしませんがね」
「だが、寄付は続けている」
何故知っているのかは尋ねなかった。俺はずさんな人間で、振込用紙だの支援団体の便りだのを平気でそのへんに放り投げておいた。書棚の奥の本を見つけ出す男に知られないはずもなかった。
「そのくらいのことはしますよ、それしか出来ないんですからね」
偽善と謗られようと、俺に出来ることはそれだけだ。
「出来ることをするのが人間の仕事だよ、当たり前だ。だが、君に出来ることは他にもあるだろう」
そう言った男は、俺の感傷の馬鹿馬鹿しさに呆れたものか、それともお説教じみたことを囁いた自身を嘲笑ったものか、短く、小さな声で笑った気がした。だが、俺はその顔を見ていない。何を、とも尋ねなかった。何故なら、その手が俺の髭を弄び、すぐさまその唇が馬鹿なことを言ったこの口を塞いだから。多分、互いに気恥ずかしかったのだ。これ以上そんな話を続けるのが。
だが、俺はあのときの顔をよくよく見ればよかったと何度思ったかしれない――あの男がその土地で死んでから。
墓参りには、妻と娘と三人で行く。
たまに娘はボランティアだなんだと言い訳をして来ないことがある。妙な気を利かせているつもりらしい。誰に似たものか、まったくとため息が出る。
俺は、独りでふらりと、酒だけを持って訪れることもある。
今日は、そんな気分だ。
俺は、あの後コンビニの店長を辞めて広告業界に復帰した。
今も、ささやかな額を寄付し続けている。
そして、あの男が言ったように、この俺に何が出来るのか考え続けてもいる。
他の誰よりもたくさん話しをしたと思っていた。
言わなくとも通じると甘えてもいた。
知らずにいたことがあんなにたくさんあったとは想像もしなかった。
「今夜は美味い酒と、焼いた秋刀魚を持って行きます。
月が、綺麗ですよ」
了
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