小咄「スイートホーム」
あなたと暮らしはじめて二週間ばかりたったころ、店長が教えてくれた。冷蔵庫にいつも好きなものがある、特にそれを好きだと言ったおぼえもないのにとあなたが首をひねったそうだ。おれだったらそんなこと、とてもじゃないが人前で口にできない。けれどあなたはそれを心底不思議そうな顔つきでもらしたと店長が笑った。あなたらしかった。
その店長を少しばかり巻き込んですったもんだしたあと、おれはようやくあなたの家の鍵を手に入れた。初めて押しかけてからひと月もたった昨夜のことだった。
知り合って半年ほどはたつ。おれはもうあなたの食べ物の好みというものをだいたいのところ把握していた。あなたはほんとうに表裏なく隠し事もごまかしもなく、好きなものは好きで苦手なものは苦手だった。おれはだてにシフトに手心を加えていない。休憩時間にあなたが難しい顔をせず口にした菓子、選り分けたおでんの具、何度か手にした清涼飲料水の類はあらかたチェックしてあった。そのあたりの抜かりはない。
あなたはあなたでじぶんは飲まないコーヒーやそもそもありもしなかった灰皿を用意し、さらには箸や茶碗といったものまで鍵を手渡すよりずっと前に揃えるようそれとなく促してくれた。おれは内心ひそかに順番が違うのではないかと突っ込みを入れながら、それらをありがたく受けとめ、粛々と仰せに従ってあなたの傍らに潜りこもうとあれこれ画策していた。
画策。
努力とも腐心ともなんとでもいえる。だがおれは、あまりそこで綺麗なことばを使いたくない。
おれははじめ、何があろうとあなたの味方だと言うかわりに告白をした。あなたに、友人として冷たくやさしい態度をとられているのだと勘違いしていた。たぶんあなただけがおれの気持ちをそれと知らなかった。けれどあなたはまわりをまるで見ていないというわけでなく、おれの仕事の詰まり具合や他の店員の癖や段取り、そういうものについてけっして無頓着ではなかった。誰かのおかした小さなミスも、ことによるとおれより先に気づいていたような節もある。けれどそれをこちらが問うまで口にしなかった。ましてさりげなくフォローまでして黙っていることもあった。
おれは、そういうあなたの家に押しかけて関係を取り結んだ。あなたが逃げ出したのに腹を立てたようなふりをして、いや、じっさい憤るままにあなたを詰ったのだが、おれはあなたよりずっと冷静だったはずだ。
あなたには青天の霹靂でも、おれにとってはそうではない。そういうはなしだけでなく、おれは初めてあなたに告白したときの気持ちから遠くはなれたところにいることをよく知っていた。
だから、店長がときどきあなたの話しを聞いてくれていたのは有り難かった。ほんとうだ。あなたの側に立つひとがいてくれるとわかって、おれはじぶんの「画策」を許容できた。
店長はあなたを労わるのと同じ口でおれを冷やかし、からかいながらおれを諭した。さすがに訳知りらしく的外れはひとつもなかった。だがおれはそれには表だって反撥し、ときに素直に聞くそぶりで傲然と無視し、たいてい最後にはそのとおりだと納得しつつ、感謝の言葉を返さなかった。
それはあなたがしているだろうと思っていた。
そのていどには、楽観的でもあった。あなたとおれが一緒にいることに。
暮らしはじめてよくわかった。
あなたは、じぶんの好きなものをそれと知らないようなふうだった。いや、わかっているのにそれをそうと認めない頑ななところがあった。たとえば甘いものを、それから綺麗な色の服を。おれにもたれかかって眠ることや髪やからだを洗われることを、あなたがそうと認めるにはまだまだ時間がかかると思われた。そのいっぽう、苦手なものはすぐに白状してくれた。いやなものはいやだと、おれにはそれを隠さなかった。食事その他のことだけでなく、ベッドのうえでも我慢しないでいてくれた。生来の正直さからでなく、あなたはそれを意識しておれに伝えてくれようと努力していた。
とても、ありがたかった。
昨日、つまりひとつきほどたった雨の宵、あなたはとうとうおれに鍵を渡してくれた。そしてあなたはいつもどおり、コンビニから依頼人のところへと出かけていった。おれはあなたのベッドではじめてぐっすりと眠ったように思う。
そして今日の明け方のことだ。
あなたから、電話があった。おれは文字どおりに飛び起きた。そして、なるたけ何でもないような声で何かあったか尋ねた。依頼先であなたから連絡が入ることはそれまで一度もなかった。あなたはトラブルを抱えやすい魘使いであることを懼れておれを遠ざけようとしてきた。そうしたあれこれを抱えこみ、互いの了解を得てようやく鍵を受けとったその朝に、まさかの電話が入ったのだ。
ところが、おれの耳に聞こえてきたのは、あなたが慌てたようすで本当に申し訳なさそうに謝る声だった。
「起こしてごめん……。何もない、ほんとうに。ただ、いつも起きてるから、てっきり起きてるかと思って……」
おれはたしかにいつもあなたが帰ってくるときには起きていた。ほとんど待ち構えているといった具合で。
おれは時計をたしかめ、あなたが駅前に近いところにいると見当をつけた。それからベッドへ腰かけながら尋ねた。
「でも何か用事があったんじゃないの?」
あなたは電話の向こうで一瞬なにかを躊躇った。おれは辛抱強くその沈黙を待った。
「用事、というか……いまコンビニの前にいるんだが、何か、食べたいものがあれば買って帰ろうかと……」
切れぎれの言葉がなにを意味するのかわからないはずもなかった。あなたはあなたで、おれがおしだまったのを何と思ったのか、先ほどと違う雄弁さで問うた。
「何か好きなもの、あるだろ? 飲み物でもなんでも」
おれは自分の癖毛をひっぱってうつむいた。ひとりでに頬がゆるみ、それでいて何故か泣きたいような気持ちでもあった。
たとえばあなたはおれの好きな缶コーヒーの銘柄を知らないわけじゃなかった。気にしていないようで、気をつけて見ていてくれていた。ましてコンビニにあるものなら、おれたちはふたりしてコンビニ店員なのだから、お互いの好みを知らないはずもなかったのだ。
それなのに今日にかぎって、あなたらしく律儀に「好きなもの」を聞いてくる……!
ほんとうにどうしようかと思った。どうしてくれるのだと誰かに、いや、もちろんあなたに詰め寄りたい気分だった。
おれはだから、自分らしく本音を返すことにした。
「何もいらない」
そう言うとあなたは心配そうに、腹の調子でも悪いのか? と聞いてきた。まったくもってあなたらしかった。察しがいいのかわるいのか本当によくわからない。おれは今後もこのひとの頓珍漢に振り回されることだろうと覚悟した。
おれはそれでもくりかえす。
「……何もいらない」
さすがのあなたも、たぶん、わかったはずだ。
あのコンビニの前でケイタイに耳をあてたまま立ち尽くすあなたの姿をまぶたの裏に思い描いた。朝早くとも車の通りはあるはずだ。あなたの頭のうえで街路樹の梢が揺れている。あなたはその葉擦れの音を聞く。それだけでなく、あなたは夢使いだから、いまあなたが爪弾くことのない夢がおりてくるその香音をも聞いているかもしれない。
でも今、おれはおれの声だけを耳にして欲しい。
「おれが好きなのはあなただけ。欲しいのもあなただけ。だから早く帰ってきて」
あなたが息をのむ。
おれは、すんでのところで「食べたいのもあなただけ」と言うことばはのみこんだ。ほんとうに飢えていた。おれの全身があなたを欲しがって息苦しいほどだった。
電話の向こうで耳慣れた歩行者信号の音楽が流れはじめた。あなたはそれで我に返ったらしい。すぐ帰る、と口にして電話を切った。おれはそのままもういちどベッドに横になって枕を抱えた。
ああどうしよう。
きっとあなたはあの交差点をわたり、コンビニからここまでずっと走ってくるに違いない。あの長い髪を揺らし頬に血をのぼらせて。
おれたちは、あそこで出逢ったのだ。あのコンビニでアルバイト店員として付き合ってきた。
それが今、おれはあなたの家にいる。
あなたのただいまを聞いて、おかえりを言える。
いてもたってもいられなくて、もうしばらくかかるとわかっているのに起きあがる。
あなたはまた自動ドアだと笑うだろう。
おれはその笑顔ごと抱きしめる。
あなたと、ここで生きていく。
了
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