小咄「抱擁」

 じぶんで鍵をあけずに玄関のドアがひらくのはいかにも不思議な気持ちがした。魔法のよう、というのはいささか大仰かもしれない。けれど、伸びてきた腕に抱え寄せられるまでそんなことを考えていた気がする。

 会いたかったとくちづけの合間に二度ほどくりかえされてすぐ、おなかすいてたり疲れたりしてない、と聞かれた。ただいまもお帰りもなかった。腹はさほどでもないが、疲れてはいた。できたらすぐシャワーを浴びて横になりたかった。いつもそうしてきたはずだ。それなのに俺はどうしてか、いや、そんなには、とこたえていた。彼はよかったと微笑んで、あなたとこうして抱き合いたかったときつく抱き締めてきた。

 たかだか二十四時間ほど離れていただけで、しかも付き合い始めたのはそのときだというのに、耳朶に触れる声の熱っぽさにのぼせあがった。彼の指がやさしく丁寧に髪をかきやる。ひとつに縛っていた髪がほどかれる。互いのからだが隙間なくぴたりと重なっている。頬にほおを寄せながら、彼が告げた。

 おれは眠れなかった。ベッドにあなたの匂いがして。

 そんな言葉でこんなに急激に体温があがるものだと知らなかった。ネクタイに手がかかり上着をはぎとられてようやくことに及ぶ直前にあるのだと気がついた。俺は慌てた。いや、暴れた。その腕から逃れようとしたはずが、もうすでに彼の器用な手はベルトにかかっていた。

 俺は待てと言った。風呂に入りたいと。

 それには、おれはベッドのほうがいいと返ってきた。狭いしタイル冷たいから、と。

 そこでするとは言ってないという言葉はまたしても彼の口のなかに消えていった。こんな朝っぱらから、陽の燦々とさしこむ部屋でじぶんたちは何をし始めるつもりなのか想像しただけで頭がくらくらした。

 そういえば昨日の朝、今夜は寝かしませんからと意気揚々と囁かれたことを思い出す。俺は夢使いだから一昼夜ほんとうに一睡もしていないのだった。そういう俺のおぼつかない抵抗は彼をよけいに煽っただけで、ひと仕事終えた昂揚と疲労を抱えたからだは他愛無いほどに脆く、ありとあらゆる言葉と愛撫に反応した。俺はあたまの隅で考えた。明け方の泡立つ香音を受けとめて全身で奏でているようだ、と。

 彼が服を着るのをベッドから眺めた。

 俺の抵抗を宥めすかし甘い懇願ののちに暴君じみた振る舞いをしたその美しい肉体を。

 彼は俺のうえに屈みこみ、頭の横に手をついた。俺の髪を撫でてから指先でそっとかきやって額のうえに唇を落とす。両のまぶたにもそうしたあと、離れたくないとひとりごちるように呟いて布団ごしに体重をかけないで抱き締めてきた。

 俺が目をあけると、彼は苦笑した。

「怒らないで。ゼミがあるからちゃんと行く。あなたと一緒に暮らすためにはまず大学を卒業しないと」

 それを聞いて目をとじた。

 すると、おやすみの囁きと鳥の羽のようなくちづけが頬に触れていった。

ドアの閉まる音を聞かなかった。

 俺はその日よく眠ったらしい。


                         了

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