小咄「ゆっくり、急ぐ」

ふたりが出来あがった翌日のこと

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 あなたの家に初めて押しかけた夜は土砂降りの雨だった。

 目をさますと、おれが脱ぎ捨てた服はハンガーにかけられ、ずぶ濡れの靴は丸めた新聞紙が詰めこまれて三和土のうえに整然と揃えられていた。

 いっしょに暮らしてくれませんかと言ったおれにあんな渋い顔をしておいて、こんな世話女房みたいな真似をするあなたがわからなかった、などと言うつもりはない。あなたはたぶん、誰が泊まったとしても同じようにしたのだろう。そんなことで自惚れはしない。あなたはひとに対して親切だ。それをおれはよく知っている。よって、ドライヤーを手渡しながら、生乾きだから自分の服でよければ着て帰るかとたずねたあなたにおれは甘えた。そこで遠慮しなくていいともわかっていた。

 そのいっぽう、夜は仕事だと断ったあなたに、次いつここに来ていいのか問うつもりはなかった。おれはあなたがはっきりと拒絶しなかったと頭のなかでくりかえしていた。あなたはたしかにあのとき呆れたような、迷惑そうな顔をした。けれどおれの反論に反論を重ねなかった。踏ん切りがつかないなら、つくようにすればいいだけだ。おれは自身の身勝手を十二分に理解していた。しかもあなたはこういうときに余計な駆け引きをしない誠実なひとだとも知り抜いていた。だから、玄関の鍵をまわしたあなたの横顔にぶつけた。

「依頼人のところから戻ってくるの何時になる?」

 あなたは無言でこちらを見た。それからおれの真意をそれと確かめる顔つきでこたえた。

「……始発が動いたあと」

「じゃあそのころここで待ってる」

 ここ、というのがドアの外だとあなたは察した。

「大学は?」

「明日はどうせ昼からだし、あなたの顔見てから行く」

 この服洗って返しに来ます、と続けた。おれはそれを「理由」にした。あなたはそこでまた何か思案するふうなそぶりを見せて、手のなかにある鍵をもてあますように握りなおした。そしてひとつ、小さな吐息をついて右腕をさしだしてきた。

「持って行っていい。このままバイトから直行するから」

 おれはすぐさまそれを受けとらなかった。かわりに、なんでもないような声でたずねた。

「もうひとつ鍵ないの?」

「……ある。が、部屋のなかだ」

 嘘をつけないあなたらしかった。それから頬にかかる髪を右手でかきやってから、いいかげん業を煮やしたという口調でもらした。

「何もかも急ぎすぎやしないか?」

 あなたにしたらそうだろう。でもおれは違う。

「おれはただあなたといっしょにいたいだけで急いでるつもりはない」

 すかさずそう返したら、あなたは赤くなって目をそらした。こたえを迫って追い詰めたかったわけではないと釈明する用意もあったはずが、すっかり頭から抜け落ちた。我を忘れてあなたの俯けた顔を貪るように見つめていた。それでなお、今ここでキスしたら明日の朝、締め出しを喰らうにちがいないと考える余裕はいくらか残されていた。おれは何もせず、なにも言わずにその場で踏みとどまった。

 あなたはおれの凝視に気づいてきまり悪そうな顔をした。それからくるりと背を向けていつも以上の速足で歩き出した。おれは慌てて自転車をとってきてその後を追った。どうやってご機嫌をとろうと考えもしなかった。あんななんでもないひとことで、おれはあなたの頬に血をのぼらせることができる。あなたはおれを好きでいてくれている。間違いなく、たしかに。

 あなたの傍らにじぶんの居場所を得ようとあれこれ頭を悩ました先ほどまでのじぶんを思い返してわらった。なにも不安に思うことはない。おれはただ、あなたを待てばいいだけだった。

 なのでただ横に並び、歩調をあわせた。そのころにはもう、あなたはいつもの速足で進んでいた。あなたは照れ隠しで腹をたてるのだともうおれは知っていた。いや、ずいぶん前から知っているような気持ちさえした。

 ふと空を見あげると、昨日の大雨がうそのような快晴だった。すると上を向いたおれの頤を横目にし、あなたが口にした。

「ずいぶんと派手に転んだな」

「あのときは、おれの人生でいちばん急いでました」

 それを聞いたあなたは屈託のないようすで笑った。

 あなたは肘の傷にはかいがいしく絆創膏を貼ってくれたが、頤のそれは自分でできるだろうとつっけんどんに手渡してきた。いま思えば、あのときもあなたはきっと照れたのだ。じぶんの振るまいか、あなたの手を待っていたおれの態度か、その両方に。

 あなたはおれのほうを見ないであなたらしい生真面目なようすで呟いた。

「そんな怪我をするほど慌てるな」

 心配する、と続けられておれはすぐに気がついた。あなたのご両親が事故で亡くなったことを。そして、あなたはあなたでそういうおれをそれと察した。そして、それがさもあたりまえのことのように息だけでわらった。何もかも、おれでなくあなたのほうがよく知っていた。

あなたはまたもやこちらを見ずに囁き声で告げた。

「そんなに急がないでくれ」

もう逃げないから、とあなたはようやくおれを見た。おれはあなたの瞳にじぶんがうつっているのを確かめながらこたえた。

「じゃあ、ゆっくり急ぐことにします」

 それを聞いたあなたの笑顔はその日の空みたいに晴れやかだった。


 了

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