小咄「猫と花火と膝枕」
この一週間、おれたちは一軒屋で暮らしている。あなたの叔父に付き添って海外出張中の家主の黒猫の面倒をみるためだ。このはなしを受けたとき、出不精のあなたは動物の世話などしたことがないと乗り気ではなかったのだけれど、この家に立派な風呂場があり、申し訳程度とはいえ庭があり、そしてもちろん縁側があるのをたしかめて以降、毎回とても楽しそうに荷造りをした。
おれはおれで、縁側にしつらえられた籐椅子であなたがうたた寝するのを眺めてうっそりと微笑んだりしているのだが、猫は猫でおれにはめったに近寄らないくせにそこが特等席と言わんばかりにあなたの膝のうえに居座っていたりする。それはあなたがおれのようにその耳を引っ張ったり尻尾を無理やり掴んだりしないからだろうが、今みたいに、猫がそのアボガドグリーンの双眸を閃かせてこちらを一瞥するのを見やると、何やら妙な敵愾心にとらわれなくもない。
といって、猫にはあなたへの純然たる好意があるふうもなく、あなたにも猫に対する根源的な関心というものも欠けていて、それでいて人馴れぬ闇色の獣が長い黒髪をもつあなたの膝のうえで悠々と寛いでいるのを目にするのは悪くない気分でもあった。
猫はおれがあなたを起こすつもりがないと知ると、そこに再び寝そべった。
猫はいったいいつ、あなたの膝を独占したものか。おそらくは寝入ってしまう前だろう。あなたは猫の突然の接近に驚いただろうか。そしてじぶんの膝のうえにとどまった「彼女」の肢体をその繊細な手で慈しんだりしただろうか。
それとも、いささか困惑したあとにただしずかに微笑んであなたの自由を奪った生き物の存在を受けとめるだけだっただろうか。猫は、あなたを見つめてねだるような声で鳴いてみせたりはしなかったのか……
あなたはふだん、猫をむやみに撫でたりしない。
もしかするとそれと同じように、おれにいきなり抱きついてきたりもしない。
畳みのうえで読みかけの本をひらく。灯りは、ついている。あなたは眠るつもりがあったわけではない。おれの帰りを起きて待っていたくて風呂に入らず、椅子に座ったのだ。
おれはさっき、あなたの弟子を自転車で送っていった。ふだんはあなたとふたりで彼女を家まで送り届ける。今夜はでも、あなたが酷く疲れていたようだったので彼女と示し合わせてそうした。あなたはおれの言うことはそうそう聞かないくせに、小学生の弟子の言葉にはおどろくほど素直に耳を傾けた。先生夏バテ気味だし、先生には言えないはなしを聞いてもらいたいから、とはっきりと口にされたあなたは少々面食らった顔をしていたが、弟子がいない隙に生真面目なようすでよろしく頼むと頭をさげた。
ところで、マンション暮らしの弟子に庭で花火を楽しんでもらいたいとあなたが買ってきた花火は湿気ていた。
おれと彼女はあなたに気づかれないように顔を見合わせた。
それから三人で、ようやく火がついた線香花火を額を突き合わせて愉しんだ。
そういえばあなたは、師匠のお宅が好きだった、と口にしたことがある。あれはお屋敷というのだろうが、とも言い添えた。師匠が縁側に腰掛けて紫煙を燻らせながら幾つもの香音を指先で弾く姿に憧れた、とも。その香音がやわらかく、やさしく、慈雨のように降り注ぐさまを聞くのも好きだったと語るあなたの横顔を見つめながら、夢使いでないおれにはどうやっても聞くことのできないそれがどんなものなのか、あなたのその表情からうかがい知れたような気がした。
麦茶にいれた氷が解けて音をたてた。グラスについた水滴を指先ですくう。
おれは本を置いて時計を見る。
そろそろ布団であなたを寝かしたほうがいい時間だ。
驚かせたくはなかった。だからあしおとを立てないよう気をつけて近づいた。それでもあなたはうっすらと目をあける。足許の板がわずかに軋む。猫は、おれの様子をうかがって顔をあげた。緑色の両目がおれをひたと見つめている。だから、
「おれですら、まだしてもらったことがないのに」
猫にそう声をかけた。
あなたが意味がわからなかったようで目をしばたいておれを見あげたが、猫は大欠伸ひとつでそれにこたえ、あなたの膝からとびおりた。
おれは、なにを、と問うあなたの頭を腰を屈めて抱え寄せる。髪に唇を寄せると硝煙のにおいがわずかにする。猫はお誂え向きに引き戸の向こうに消えていた。はじめてここに来た日、猫がそこにいるだろうと指摘してくちづけようとしたおれの顔をあなたは掌で押しのけたことを思いだす。
「明日してもらう」
だから何をとくりかえしたその口を塞ぐと、あなたは弟子の様子をたずねようとした。おれはあなたの頬に手を添えたまま、あなた疲れた顔してたから言い訳だよとこたえた。あなたに秘密なんて何もない、あの性格で言えないことなんてありゃしないでしょと続けると、あなたは弟子に思い遣られてちゃ師匠失格だなという苦笑のあと、しんからほっとしたような顔を見せた。
それからその右手がおれを引き寄せるために首の後ろにまわった。おれはそれを合図にあなたの膝に乗りかかる――……
了
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黒髪君は猫と相性がいいとはけっしていえないけれどあまり嫌われないのはたぶん、「不可侵条約」とでもいうものを締結する意志があるのを猫の側にくみとられているからだとおもうw
それから自分から抱きつきたくないわけじゃなくてただたんに上手くタイミングが計れないだけだともおもうwww
ていうか茶髪くん、君は黒髪君を眠らせてあげるんじゃないんかい!?
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