『夢の花綵』「夢でさえ、なくていい」3
おれが六つのとき、すでにあのひとはあの土地で確固たる地位を築いていた。若く、並外れた技量があり、抗いようのない不可思議な魅力があった。だれもが認める美男ではなかったが、あのひとが道を歩くとみなが足をとめて眺めた。昔話の笛吹きのように、こどもはその後を走って追った。おれは追わなかった。あの手がほかの子の頭を撫でるのを遠くに見ていた。
叔父の妻がまずその魅力に篭絡された。おれがはじめて男女の営みを垣間見たのは、あのふたりのそれだった。女優崩れのおばは田舎で塞ぎこんでいた。誘惑されたのがどちらか、おれは知らない。
関係はすぐに明るみに出た。叔父はあのひとを殴りにいくだけの気概もなく、あろうことかじぶんの妻に手をあげた。隣の家から聞こえる罵声と悲鳴と物の壊れる音はおれのこころを痛めつけた。
その日まで、我が家はそれなりに大変なこともあったがそうした「不幸」とは無縁だった。おれだけでなく、おれの家族は降って沸いたその現実に恐れ戦いた。
おれにはひとまわり年の離れた姉がいた。それと、ひとつ違いの双子の弟と妹が。妹は生まれつき日常生活に不便があった。母は仕事を辞め、姉はおれたちの面倒をみなくてはならなかった。そして、やはりおれが七つのとき祖母が倒れて寝たきりになったが、そのことが家庭を暗くすることはなかった。寝たきりの人間が倍に増えたことを家族の誰もが、何か面倒が起きたと感じるようないわれのない不安を持ち得なかった。あたりまえのこととうけとめた。父も母もしっかりしていた。おれも、ほかのきょうだいも、それが「日常」だと思っていた。
だからこそ叔父の家の変貌はどのようにしても理解できないことだった。酒に溺れ、荒み、面つきすら変わり果てた弟を父は持ち前の生真面目さで懸命に理解しようと努め、もとの彼に引き戻そうと奔走していたように見えたが所詮、無理だった。父がまず、その黒々とした何かにとらわれた。続いて母が父の苛立ちに巻き込まれた。我が家は口論という名の喧騒と無視という名の静寂に交互に支配された。弟はそのどちらにも癇癪を起したがおれはひたすらその場から逃げた。それが何年ほど続いたか。祖母は虐待をおそれた母の賢明な判断で施設にいれられた。おれはさびしくてたまらなかったが、たぶん、それでよかったのだと思う。
姉はたえきれず家を出て寄宿舎のある大学に進学した。それも正しい判断だっただろう。残されたおれと弟たちは、なすすべもなくただ日々を生き抜いた。
幸いしたのは、おばが他の男とその街を出たからだ。叔父はいきなり正気に戻り、いまいちど映画の勉強をすると海外に旅立っていった。今までが演技ででもあったかのような変わりように、おれたち家族は呆れ果て、ついにはゆっくりと、薄紙をはがすようにして恢復した。
その間おれは「そのこと」を理由にあのひとと関係を持った。おれが泣いてとりすがって脅したのだ。幼さや弱さというものがときとして何らかの力をもつことをおれはよく知っていた。
気の弱いひとだった。
そして、不便を我慢できないひとだった。
いい家の生まれだろうとは思っていた。まさかあれほどとは考えもしなかったけれど、おれの想像はあたっていた。
歌詠みだった。
倒れる前の祖母が、あのひとには嗜みがあると褒めていた。さもあろう。そういう生まれなのだから。
祖母はおれを格別に可愛がってくれた。母が妹にかかりきりなことを、それでおれが我慢していることを察してくれた。詩や物語の好きなやさしいひとだった。若いころは歌人について勉強し、二冊ばかり歌集も出していた。
おれは祖母を施設におくった両親を恨んだ。仕方がないと思えるようになったのはこの数年のことだ。
弟はうすうすおれとあのひとの関係に気づき気味悪がった。おれの入った後の風呂に入らないほどに。それもわからないではない。おれは弟を守らなかった。彼の憤懣をひきとる余裕はなかった。涙をぬぐってやった記憶はない。背に庇ってやったことも。ひとりで食事すらまともにとれない妹の面倒はどうにかみたが、それだけだ。その世話さえ時として弟に押しつけた。
姉は何も知らないまま。もしくは知っていても知らないふりをした。遠く離れてしまっては尋ねようもない。ただ言い訳のように季節ごとに服や何かを家族ひとりひとりへと買ってよこした。今も、よこしている。
妹は、おれがあの家を出たことさえもわからなくなってしまっただろう。
誰が、家族といえど誰が、
それぞれの「孤独」を知ることだろう。
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