第三部『夢の花綵』「夢も見ない」4
電話の着信音で、おれより長風呂の彼があわてて浴室から出てきた。こういうとき素裸を期待しても無駄だ。床を濡らさないようタオルで濡れ髪をくるみながらも下だけはきちんとパジャマを穿いている。夏の盛りだ。風邪をひく心配はないのだからこんなときくらい隙をみせてくれてもいいのにと思わなくもない。一緒に暮らしはじめてもう数か月たつというのにあまりにガードが固すぎる。おれだって、なにもこのひとにパンツ一枚で家のなかを歩いてほしいとは願わないが同居人の役得くらいあっていい。いつだったかケチと愚痴をいったらあからさまに眉を顰めて呆れられた。このひとらしくてそれはそれで悪くないとおもったのは内緒だ。
そんなわけで、当の本人はおれの思惑など気にかける様子もなく目の前を大股で横切って電話に出た。その途端、こちらの耳にも届くくらいの声が聞こえてきた。
いったいあなたの師匠は何様なのよっ? あたし、親にだってあんな頭ごなしに怒鳴られたことないのに、お前呼ばわりで説教されまくったんだけど、なんなのこれ、どういうことなのっ。
どういうことって委員長、それは僕のほうが聞きたいというか、こんな真夜中にどうしたわけ?
どうしたもこうしたもって、ああもうとにかく、あなたの師匠に売女呼ばわりで怒鳴られたの!
ば……
たかだか試しに誘っただけなのに。だって、三か月近くたつのに手も握らないのよ? 家にあがるくせに何処かのお姫様みたいに一二時前にそそくさと帰ってくの。だから結婚するかどうかはしてから決めても遅くないでしょうってことを口にしたら烈火のごとく怒りだして、
それは……
なによ、あたしが悪いとでも言うつもりならいますぐ友達やめるわよ。
そうじゃなくて、羨ましいと思って。僕は師匠に怒鳴られたことないよ。
……なによそれ。
師匠にそんなふうに感情を剥き出しにして叱られたことが一度もないんだよ。だから羨ましいと思って。
それはね、ていうか、なんで怒鳴られてむかついてるあたしがあなたに羨ましがられたうえにそれをわざわざ説明してあげなきゃいけないんだかよくわからないけど、とにかくそれは、あなたがあのひとの前で優等生のいい子ちゃんでいたからでしょうよ。
不出来だったことは山ほどあるよ。
あのね、できないことを叱る馬鹿はいないわよ。間違いを正す必要はあっても、不出来に文句つけたって萎縮して余計できなくなるだけでしょう。かといってべつに褒めて育てるってタイプにも見えないけど。なんどもいうようだけど最年少記録ってすごいことなんじゃないの?
もしかして、師匠に恵まれたからってこたえるところかな。
かもしれないけど釈然としないわね。
僕はそうでもないけど……それで、師匠はもうそこにいないんだね?
とうに出ていっていないわよ。ケータイも繋がらないし。
それで君、どうするつもり。
あんまりむかついたから今から押し倒しに行こうかと思って。
……僕からは、明朝電車に乗っていくか、それで遅いならタクシーを使ってほしいとだけ。支払いは、
あの気障ったらしい男に払わせるのも癪に障るわね。あたしがしたくてすることだから、じぶんでレンタカー借りて運転していくよ。安心して。安全運転で行くから。向こうについたらメールする。
途中も連絡してくれると僕の気持ちが落ち着く。
ありがとう。でもそれはよす。あなたも寝ないとならないでしょ? 交通事情がいつもと違って時間がかかりそうなときには連絡するから。
わかった。
……ごめんなさい。あたし、きっとすごく迷惑かけてるみたいね。
いや、そんなことはないよ。たぶん僕も、それに師匠も、君にだいぶ面倒をかけたように思うし。それから本当に迷惑だなんてことはないから、僕は君のことに関してそんなふうに思わないよ。だからこの先も何かあったら連絡して。それはともかく、くれぐれも気をつけて運転してほしい。
……ありがとう。ごめんね、やだな、なんか泣けてきた。ほんとあたしダメだね、余計な心配かけて。だいじょうぶ、気をつけていくから。それからね、あのひと、あなたの自慢ばかりするわよ。まあふたりの共通の話題ではあるけれど、でも、あれは親馬鹿ならぬ師匠バカだとあたしは思う。
それは……
たまにちょっと妬ける。まあしょうがないか、師匠と弟子って親兄弟、恋人や夫婦、友達ともまた違う関係だものね。それに、元のはなしに戻るけど、あのひとの言うことにも一理あるようには思うんだ。一生添い遂げる覚悟もなく結婚するなんてだらしがないって責めるのは今時どうかと思うし、さんざん色んなひとと寝てきたくせに自分を棚上げで女性差別なこと言い出すし、ましてだらしなくて悪いのかって言い返したいのは山々だけど、そういうことじゃなくて、あたし自身の抱えてる問題として、一喝されてちょっと目が覚めたところもあるの。まあそんなわけで、行ってくる。
道中の無事を願うことばがくりかえされ、しずかに会話が閉じられた。おれは寝返りをうち目覚めていると知らせたのに彼は半身を起こしたまま暗がりであらぬほうを向いていた。おれはその横顔をだまって見つめ、彼が語りだすのを待った。
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