第三部『夢の花綵』「夢も見ない」5

 師匠はどんなに遅くなっても俺の淹れたお茶をのんでから自室にさがった。きゅうな用事で外食しようと食事が用意してあれば絶対に残さず平らげた。寝ていていいと言われても、だから俺は起きていた。

 親が死んで、師匠が俺を引き取ると言ってくれたときは心の底から嬉しかった。俺は七つの頃から師匠に憧れてたし、その当時からお宅に出入りしていた。じぶんの家のような普通の一軒家とちがう立派なお屋敷で、そのころはとても賑やかだった。師匠のおじいさん、つまり大先生も御存命で、住込みのお手伝いさんを雇いお弟子さんだったのか居候のようなひとも何人かいたように憶えている。けれど師匠のご両親はいなかった。大先生が亡くなって、俺の耳にはいってきたのは勘当と心中という言葉で、少なくとも前者は事実らしい。誰かにそれ以上を尋ねられる雰囲気もなかった。むろん師匠も話さない。あのひとは、そういったことを口にしないひとだった。

 中学にあがるころには毎日のように修行と称して出入りした。自由気儘な独り暮らしに俺が来ることで不便を感じているのは察していた。けれど邪慳にはされなかった。愛人との約束でさえ、俺のためにいつでもふいにした。熱心だった。それを彼女たちに嫉妬交じりで揶揄されて俺はたぶん、内心得意になってたはずだ。家には俺の居場所はなかった。両親は叔母の出奔のせいで俺が夢使いになるのにいい顔をしなかった。それを当時の俺は知らなかったが、教師か学者か、そういう堅実な仕事について欲しいと願われているのは気づいてた。

 いっしょに暮らし始めてからも疎まれているとは思わなかった。ただ、帰ればいいと口にされなくなったかわりに溜息が増えた。たまに愛人と揉めて愁嘆場を俺に勘付かれたときは気まずいのか何日も家をあけた。それでも日に一度は必ず電話がはいって、ちゃんと食べているかとか本を読んで勉強しろとか親みたいなことを口にして自身でそれを哂ってた。俺はでも、こどもみたいに構われても嬉しかった。師匠の大事は数いる愛人たちじゃなくて俺だと痛いほど感じた。

 師匠はいちど、己は爺に殴られて教わったと呟いたことがある。気性のきついひとだとは察してたが、そうとは知らなかった。出来が悪かったからなと言い添えて、親に捨てられたくらいだから相当なものだとも漏らした。俺はなにも言えなかった。至極出来るひとだと思っていた。いい大学に行ったと聞いていたし他の夢使いにも羨望されていた。俺自身あんなふうに繊細な香音を鳴らせるひとを他に知らない。

 それに……


 それに?

 おれは助け船をだすように問い返した。最後まで黙って聴くつもりだったが促したほうがいいと感じた。ところが、


 師匠は、事の始めから彼女と結婚するつもりでいたはずだ。それなのに俺がそれに気づかず、知ろうともしなかったから、俺に話さなかった。


 妙な疎外感を訴えられて少なからず焦った。弟子に色恋沙汰を相談するはずもなかろうと慰めの言葉をかけるべきかと悩んだ瞬間、


 俺には、彼女の居場所はわからない。無駄なことを頼んだのは安心のためでなく、嫉妬だったかもしれないな。


 聞き捨てならないことを口にした。

 このひとの初恋のひとが彼女であるとおれは知っている。しかも、おれが告白したあとにまで「ふられたのに気になる」などと言ってさんざん翻弄してくれたのだ。本人はそのつもりがないのは察していた。このひとにしれみれば純然たる断り文句だったのだろうが、あんな顔でおれを見ておいて今さらすぎた。

 とはいえ、おれと関係するまでこのひとは女性をしか知らなかった。おれが告白した際にすら「じぶんは女ではない」と吐いた頓珍漢だ。あきれるをとおりこしておれは物凄く心配になった。大丈夫なのだろうかと。

 それはともかく、このひとは性的に女性のほうを好んでいる。それは事実だろう。たとえ付き合うことが出来ても、将来こどもが欲しいと願うこともあるかもしれない。何度もそういうことは考えた。このひととこうして実際に暮らしはじめるずっと前にも。それでも言わずにはいられなかった。もしかすると、というかすかな期待もあった。バイト先で若い女性の姿に不躾な視線を向けることもなく猥談に加わることもなかった。それが本人の言うところの堅苦しい家庭環境によって育まれたものか、それとも依頼人と夜を過ごすこともある夢使いとしての当然の配慮か、おれは知らない。たんに本人の生真面目さのせいかもしれない。おそらくは、そのどれもが正解にちがいない。

 彼女と付き合うのであれば、身を引くことも考えなかったわけじゃない。あたりまえの幸せというものが世の中にあることくらいは理解していた。けれど今、おれはこうしてこのひとのそばにいて、しかも先ほどまで抱き合っていたベッドでそんなことを聞かされていったいおれにどうしろと? 今日という今日はお仕置きという名の何かでこのひとに思い知らせるべきだろうか。

 我知らずその肩に手を伸ばしたところでそれを掴まれた。目が合った。彼が口をひらいた。

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