階梯と車輪12

 翌朝、わたしを見ると同時に、おまえ家かえって寝ろ、と店長が顔をしかめた。夕方シフトに間に合うように来い。今日はシゴトはいってないだろ。頷いたのを確認し追い払うように片手をふった相手に頭をさげた。徹夜がこたえたわけではなく胃が痛む。気づいてみると、依頼人である彼女の極めてプライヴェートな事柄を教えてしまったのだ。知られなければいいという問題ではない。しかもその理由はまたしてもわが身可愛さにあって、誰のことも大事にしていない。じぶんの感情に振り回されているだけだ。

 家に帰り、剥き出しのままの階梯をとりあげて丁寧に拭い袋にしまう。目を閉じて思うのは、彼が何故、夢使いについて詳しいかだ。会合といっていた。ホテルで見かけた相手も、もしかするとその「会合」とやらの一員であろうか。辻褄はあう。忙しい理由としては。

 だが、その理由がわからない。

 彼はなにを専攻していただろうか。たしか文学か演劇か何か。休憩時間にペーパーバックを捲っていたこともある。翻って、わたしはさほど本を読まない。昔はそれなりに小説など読んでいたが、あるときから読めなくなった。絵空事についていけないのだ。今は依頼人との会話のために社会勉強として新書などを手に取るていどで昔のように本を読むことに夢中になれない。

 そういえば、彼女のアパートにはビジネス書や文庫本が読みかけらしく積んであった。かつて住んだ家にも本はあった。父も母もわりあいに本をよむひとだった。教師だったせいか本だけは好きなだけ与えてくれた。父の祖父は大学教授で、あの家にいるときわたしは本ばかり読んでいた。

 いま、この住まいには本はない。花もない。絵も写真も飾られていない。侘しさという単語にいきあたるまでさして時間はいらなかった。覚束ない生活が言い訳になるまい。貧しくとも、好きなものに囲まれて生きているひとをわたしはよく知っている。

 空隙を埋める術さえ忘れはて、朝と夜の廻りに、そのあわいに「生きる」ことだけを念じていた。死ぬのは怖い。それに近づくのも。突如として失われる何事かを、忘れるよう日々を追うてきた。夢を見ることを忘れていたのはほかでもないじぶん、「夢使い」、わたしはいったい何者だ。

 ふと、メールの着信音でまぶたがあがる。彼女だ。


 体調大丈夫ですか。昨夜はひどいことを言ってごめんなさい。《夢》をありがとう。こんどちゃんと御礼をさせて。玄関にスポーツドリンク等をおいておきました。おだいじに。


 コンビニの袋を手にしながら電話をかけた。会いたかった。けれど彼女は寝ているようにと笑い声で促して、ひとことつけくわえた。

「あのね、あたしの付き合ってるひと既婚者なの」

 それは聞いたよ、という言葉はのみこんだ。

「それでね、人妻なの。いんびでしょ」

 僕は、声をだせなかった。

「……驚かせたかな。でもだから、すぐには言えなかった。ごめんね。それに向こうからしたら遊びかもしれない。あたしも薄々わかってる。でも、だからって、好きな気持ちは消せないよね」

 無言のうなずきを、彼女はたしかに感じ取った。

「話せるひと、誰もいなくて……ごめんね。聞いてくれて、ありがとう」

 掠れ声がいとおしく、切ないまでに胸を打つ。肩を抱いてあげたいと願いながら、彼女はこの腕を拒むと知っていた。甘えないひとだった。昔も、今も。それができるなら昨夜のうちに僕たちはどうにかなっていただろう。そう考えてまぶたを閉じた瞬間、彼女の問いに撃ち抜かれた。 

「ねえ、あのカッコイイ彼のこと、好きなの?」

 不意打ちだった。少なくとも、じぶんには。

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