階梯と車輪11

「仕事の帰りですか?」

 自転車をおした彼の顔は見たこともないほど赤かった。わたしの視線に気づいてか、

「おれのほうは会合のあと飲み会で」

「べつに、それは」

 わたしは顔をそむけた。いま誰かと話したい気分ではなかったし、事情を問われて疚しさがました。それに、彼の動向に注意を払っていたと思われたようで癪だった。

「家、こっからだとかなり遠くないですか」

「平気です。もう遅いのでこれで」

 わたしは頭をさげた。けれど、彼は横に並んだ。

「送ります」

「わたしは婦女子ではありません。夜道を歩いてどうこうされるはずもない」

 ふだんなら鶏冠にきたであろう言葉も受け流したが、彼は眉をひそめて後、真剣な表情でつづけた。

「なら、はしご、ちゃんとしまってください」

 この二本の金木銀木を見ただけで「階梯」と理解されるのは久しくない。 わたしはその顔を凝視した。

「夢秤を含め、盗難やひったくり事件が起きています」

「こんなもの盗んでも意味はないだろうに」

 しかも、盗まれてもそれがどこにあるかわたしにはわかる。わかるからこその「夢使い」なのだと彼は知っているのだろうか。

「意味の有無は知りません。けれどそれが非常な高値で売買されている現実がある」

 わたしは混乱した。これらはふつうのひとにとっては、ただ綺麗なだけの秤や枝木でしかないはずだ。黄金や銀ではないのだから。

「組合から、そういうはなしは出ていないようですね」

「月報にはそんなこと一度も」

 そこで彼は片手で髪をかきまわして俯いた。

「……おれ、いま完璧にやらかした」

 わたしに理解できたのは、彼が、何かしら夢使いについて知っている、または知ろうとしている事実であった。

 何故。

 何のために。

 そんな、酔狂なことを。

 彼がおずおずと頭をあげた。今度はわたしが見つめられる番だった。

「こんなとこでこんな時間に立ち話もなんですから、おれの家きませんか」

 躊躇したのを悟られるのは本意ではなかったが、彼は正確にこちらの表情をよんだ。

「信用おけませんか」

 なんとこたえていいかわからなかった。様々な想いが交錯し、わたしが奇妙に意識しすぎているかと思われた。どうこうされるはずもないと口にしておきながら、彼を恐れているような態度をとるのはおかしい。それに、泊まったから何があるというような関係ではない。先ほどの、彼女のように。

 いや、それは偽りだ。つつみかくさず言えばあの瞬間、彼女を欲した。学生時代、無闇な妄想をけしてしまいと誓っていたひとに欲情した。逃げたのはそのせいもある。衝動的にみだりな振る舞いに及ぶと懼れたわけではない。そんな真似はするはずもない。けれど何かを取り違えた僕は声をあげていた。ほんとうに、あんなことは初めてだった。結果的に、誰よりも優しくしたいと願ったはずのひとを置き去りにして、じぶんの疚しさのせいでさらに傷つけた。

 そして今、わたしは彼とふたりだけになることを避けた。かつて、あんな酷いことをいったわたしを表向き何事もなかったように受け止めてくれた相手が、今もまだ、こちらに気を遣うことが許せなかった。さらにはそれがわたしにまだ興味があると彼が図らずも認めた言葉であると気づいたときにはもう、彼は違う提案をしめした。

「じゃあ、そのへんのファミレスで」

「いま、話したい気分じゃない」

 それには驚いたように見えた。そうだろう。わたしは正直、彼が「夢使い」に詳しい事実に興味があった。

 彼は、ひとの気持ちに敏感だ。わたしと違う。わたしには、思いやりも何もない。たとえそうしたいと望んでも、いつも失敗ばかりしてしまう。だからもう、こんなことはここで終わりにしたい。

「むかし好きだったひとに再会した。不倫してるそうだ。ふられたのに、今でも彼女が気になる」

 彼の顔は見ないで背をむけた。

 わたしは、ウソをついたわけじゃない。


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