階梯と車輪13

 あからさまに息を詰めた僕にも彼女は頓着しなかった。やわらかな声で、だってあたしだけ話すなんて恥ずかしいじゃない、と続けた。腹立たしくはなかったが、彼女のそういう態度が可笑しかった。手強いと賞賛すべきか、はたまた弱みを見せたがらない負けず嫌いを難詰すべきなのかどうかさえ、わからない。それでも隠しおおせるとは思えなかった。だから、

「君のことを想うのと同じくらいには」

 正直にこたえた。ところが、うそつきだなあ、と声が返る。

「ウソじゃないよ」

「そう、そんなこと言ってるとわたしの写真こっそり撮ってたこと店長さんと彼にばらすよ、それでもいいの?」

 汗がふきでた。何故そんなことを知っているのかと尋ねそうになって、事実と認めたことになると慌ててのみこんだ。すると彼女は僕のこころの動きすべてを見透かしたように笑い声をたててのち、言った。

「もう、持ってないでしょ」

 そのとおり。持って、いない。あの日に捨てた。

「そういうことよ」

 さらりと耳に触れた声に何かを突きつけられる。そして、こちらの沈黙を味わうかのように彼女が息をつき、優しい、ほとんど睦言のような調子で囁いた。

「美しい夢を、本当にどうもありがとう。あんなに満たされたことないくらい幸せだった。今も、じぶんのなかにその残り香がある。溢れるほどいっぱいに。あなたのお仕事のこと、あたし、何もわかってなかった。あのときも、そして昨日も、酷いこと言って本当にごめんなさい。許してほしいの」

 涙ぐんでいるのはわかった。けれどそこに強張りはない。僕は彼女の健やかで穏やかな呼吸を耳にしながら、夢にひたされた肉体のはなつ咲きたての花のような、甘く清々しい馨りを全身で聞いていた。嬉しかった。歓びという名の快楽が僕を春の日差しのようにつつんでいた。 

 けれど、ひとつ重大な点を訂正しないとならない。

「許すも許さないも……僕のほうこそ、悪かったと思ってる。それに、そんなに言ってもらってなんだけど、あれは僕がやったんじゃないんだ」

「そうなの?」

 不思議そうな顔をしているだろう彼女にしっかり届くように願いつつ。

「あれは、夢秤王が、つまり視界の主が君のために、君だけのために用意して落とした香音で、君がその身で受けとめて滋養にし、この視界をめぐらすためにある、購いのひとつなんだよ。僕はたしかに主に願いはしたけれど、それを得ることができたのは純粋に君のちから、力というとおかしいけど、君のもの、君のいのちのために齎されたものなんだ。そして、そういう特別に馨り高い夢を、僕たちは旧い言葉で晏と呼ぶ。安らかで美しく晴れた空のことをさす。夢秤で金のほうに傾くのがそれだ」

「じゃあ銀のほうは」

「魘という。魘されるという字、わかるかな」

「なんとなくは……」

 珍しく自信なさげにかすれた声にかぶせるように、

「アンとエンはけれどたんじゅんな善悪じゃない。僕は時によってエンを多く香音に盛ることもある。それが依頼人のほんとうの望みだったりもする。そのふたつは同じ重さで視界にあるし、エンももちろん滋養になる。けれど今朝、君におりてきた香音はこの地でもっとも馨しいそれだったと思うよ」

 彼女はそこでなんとも言えない吐息をついた。

「この地でいちばんって凄いことね」

「うん。けれど、そうなんだよ」

「そうなの?」

「そう。この僕がいうのだから間違いない」

 彼女はそこで遠慮なく笑った。真実を告げたというのに鵜呑みにしてはいないようだった。それでも、悪い気はしなかった。むしろほっとした。穏やかな、明るい笑い声はあのころを思わせて、けれど今、ふたりはあのころと違っていた。

 笑い終えた彼女が、じゃあまたね、からだ大事にね、と呟いて電話は切れた。

 仰向けになり腕を額におく。まぶたの奥が熱い。ようやく、さよならをした。それが出来た。彼女への想いに別れを告げただけでなく、たぶん、僕は何かもっと別のものと離れたのだと気がついた。

 頬に流れる涙をそのままに、たぶんこの声も届くことだろうと口にする。

 ありがとう、これからもよろしく、と。

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