第72話 「わたし、今日から、狼になります!」

 手のひらに、キラキラと甘く宝石みたいに輝くキャンディがいくつも載せられては、テーブルに転がって落ちる。

 見つめているだけで声が詰まった。あのとき、檻の中にいたバルバロの少年は、やはりルロイだったのだ。

 話しかけたかった。友達になりたかった。罪深いほど無邪気な気持ちのまま、檻の中の少年に話しかけたことを思い出す。でも、何もできなかった──

 叫びだしたい気持ちが喉の奥からこみ上げる。喉の奥につまっていた言葉が。

 目頭が熱くなった。

 形も、色も、香りも。とりどりのキャンディ。

 なのに視界がゆらゆらと滲んで、まるでホタルが波に揺れているようだった。



「それまではさ、人間って卑怯で憎らしくてずるい奴ばっかりだってずっと思ってた。正直、さっきの奴みたいなのがいるって思うと、今でもそういう気持ちがないともいえない。でもさ、俺の知ってるそのちっちゃな王女さまは、俺が檻に閉じこめられてるのに気づきもしないで、『おなか空いてるんなら、おやつを食べればいいじゃない』みたいなことを言うんだ。頭に来て怒鳴りつけてやったけど」


 シェリーは黙ってお茶のおかわりを注ぎ足した。

 ルロイは両手でカップを包み、ゆらゆらと回るお茶を見つめる。

 遠い記憶をたぐるその表情は、最もつらく、苦しい思い出のはずなのに、むしろ、なぜか悲しみを覆い隠すほどの笑みにあふれていた。


「なのに、その子ときたら、毎日毎日、飽きもせずにのこのことおやつを持ってやって来ては、最後に何で食べてくれないのって泣いて怒り出すんだ。今日はキャンディ。次の日はクッキー、その次はケーキ。食えるわけがない、きっと毒が入ってるに違いない、人間の施しものなんて口にするのも汚らわしい、って思ってたのに、その子がくるたびに、憎らしい、っていう気持ちがどんどん消えてきてさ。でも、こいつも敵なんだ、人間なんだ、絶対に気を許しちゃだめだ、って自分で必死に思い込もうとして。そしたら、その次の日にさ。覚えてる?」


 問いかけたまま、答えを待って黙り込む。


 しん、と音が遠ざかる。

 シェリーは、居たたまれぬ思いをこらえ、まっすぐにルロイを見返した。


 手元のカップがこすれて、かちん、と澄んだ音を立てた。欠けも、ひび割れもない、澄んだ音を。


「ごめんなさい。わたくしが自分のことを何も覚えていないふりをして、ルロイさんにずっと嘘をついていたのは、ルロイさんが怖かったからじゃないんです。あのとき……突然、ルロイさんが檻の中からいなくなって」

「突然じゃないぞ」

 ルロイは心外な顔をしてみせた。

「何を」

「何だよ、肝心なところを全然覚えてないんだな」

 ルロイは、首の焼き印痕をこすりながら、肩の荷を下ろしたような顔をしてさばさばと笑った。

「そのちっちゃな王女さまは、鍵を開けて俺を檻の外に出してくれたんだ。そんな狭いところにいないで、外に出て、一緒にごはん食べよう? って。そしたら厩舎長に見つかっちまってさ。大騒ぎだよ。厩舎長は扱いされてた俺から君を守らなきゃって思ったんだろうけどさ。覚えてないのか」


 シェリーは眼を押し開いた。

「えっ」


 絶句する。記憶に残っているのはその直前までだ。ある日、突然、檻の中の少年がいなくなって、檻の中にキャンディだけが散らばっていて。厩舎長がひどく怒った顔で怒鳴り散らしていた、そんな断片的な記憶だけ。

「わたくしが……?」

「そうだよ」

 ルロイはにやりと狼っぽく笑った。

「だから言っただろ。、って」


「まさか」

 シェリーは大きく息をついて、声を揺らがせた。自分の周囲に張りめぐらされていたガラスのカーテンが、いっせいに切り落とされ、崩れ落ちたかのように思えた。


「そんな」

 言葉をつまらせる。

「わたくしが何も考えずにお菓子あげたりしちゃったから……そのせいで、もっとひどい目に遭わされたんじゃないかって……いなくなったのもわたくしのせいだと思って……怖くなって……だから、もう、何も考えなければいい、こわいこともいやなことも、何も見ず、何も知らなかったことにすればいい、全部忘れてしまえばいいって……思って」


 シェリーは、声を震わせた。息を呑み込む。

 忘れたいと願ったことすら、罪なのかもしれない。

 うつむいて、一言、一言。思いを胸の内から押し出すようにして、つむぐ。


「今も同じでした。わたくしのせいで、いつかは村のみなさんに迷惑を掛けてしまうかもしれないと分かっていて、それでもルロイさんの優しさに甘えて、現実から目をそらし続けていました。シルヴィさんのおっしゃったとおりです。わたくしは弱い羊そのものでした。狼の群れの中にいるのに、現実を見ようともしないで、眼を覆い、耳を塞ぎ、ふるえて縮こまっているだけでした」

 息を大きく吸い込む。

「でも」

 涙がにじんだ。胸の奥から熱い思いがこみ上げる。

「それでも、やっぱり、わたしはルロイさんのおそばにいたい」


 シェリーは、両手を結び合わせた。

 一歩、前に進み出る。

 前に出ることで、ルロイに近づくことで、自分自身の気持ちをはっきりと告げることで。

 自分で自分に張り巡らせた壁を乗り越えたい。そう思った。


「ルロイさんのことが大好きです。ずっとずっと、一緒にいたいです。人間の国になんか帰りたくない。でも、わたくしのせいで、ルロイさんや村のみなさまに迷惑をかけることはできません。だから」

 眼を何度も瞬かせ、ぽろぽろこぼれる涙を指の背でぬぐって。

 シェリーは、ぐすんとしゃくりあげて、笑った。

「だから、もう、この家では暮らせません。明日の朝、出て行きます」

「本気なのか」

「はい。決めました」

「シェリー」

 ルロイが断腸のうめきをあげる。尻尾がだらりと垂れ下がった。

「本当に、ここで、お別れなのか……?」

「ですから、ルロイさん」


 出し抜けにシェリーは、椅子に座ったルロイの手を取った。ぐっと引っ張る。

「な、何?」

 ルロイはうろたえて中腰に立ち上がる。


「こっちに来てください」 

 シェリーは、ルロイの手を引いて隣の部屋へと向かった。ルロイを部屋へ引きずり込んでしまうと、出て行けないよう、後ろ手にばたん、と大きな音を立てて戸を閉め、あおり止めをひっかけて施錠する。

 灯りがさえぎられ、部屋の中は暗く塗り込められた。


「あの、ええと、何をする気なのかな……?」

 突拍子もない行動に、ルロイは冷や汗交じりにたじろぐ。


 シェリーはルロイを見つめた。闇の中、よわよわと揺らいでばかりだった青い瞳が、今は揺るぎもせず、ひたとルロイを見つめている。

「今のわたしは、狼に襲われても反抗できないような、ひよわな羊なんかじゃありません。それを今から証明します」

「あの、その、ちょっと?」

「問答無用です」

「話がまるで見えないんだけど!」

「もう、ルロイさんのお傍に置いてください、とか。ルロイさんと一緒にいてもいいですか、とか聞いたりしません。何でもかんでもルロイさんに頼ったりしません」

 うろたえるルロイに向かい、シェリーは高らかに自分自身の未来を宣言した。


「わたし、今日から、狼になります!」


「……はあ!?」

 ルロイは眼をまんまるにした。

「な、何を言い出すんだ急に」

「狼ですから、欲しいものは全部奪います!」

「えええええーーー!?」

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