第70話 むにゃむにゃ


 ふと、目が覚める。


 おそらくは家に戻る途中に寝入ってしまったのだろう。

 シェリーは暗がりのベッドから身を起こした。ルロイがそばにいる気配はない。と、むくむくした子狼の三つ子たちがころころと毛布の上を転がり落ちていって、足元に丸まった。

 寝息が聞こえてくる。

 赤、青、黄色。おそろいのかわいらしいパジャマを着ている。シルヴィの妹さんたちだ。

 どうやら看病していてくれたらしい、と気付いて、シェリーは手を伸ばした。妹たちをひとりずつ抱き上げ、そっとベッドに寝かせて、毛布を掛け直してやる。

「トーラはおるすばんー、むにゃむにゃ」

「マーラとおるすばんー、むにゃむにゃ」

「ノーラもおるすばんー、むにゃむにゃ」

 指先でこちょこちょと小脇をくすぐってやると、妹たちはくすぐったそうにじたばたし、寝返りを打った。それでも眼を覚ます気配はない。

 妹たちがぐっすり寝転けているのを確かめたあと、窓に近づく。中央広場の方向に、赤く夜空を染めるかがり火のゆらめきが見えた。

 喧噪が聞こえてくる。


 おそらくは村の長、主立ったものが集まって自分の処遇を話し合っているのだろう。ルロイもまた、当事者としてその会合に参加しているに違いなかった。

 シェリーはしばらくの間、まんじりともせずにほの赤い夜空を見つめ続けた。差し出がましくも人の身で村の決定に口出しをすることは憚られる。だが、どんなに待っても、ルロイが戻ってくる様子はなかった。会合が紛糾しているのかもしれない。


 火を灯し、戸棚を開けて、以前からこっそりと準備していた瓶を取り出して、テーブルにことりと置く。


 ガラスの蓋がついた、砂糖菓子用の瓶。なだらかな輝きを帯びた形が、透き通る光を反射している。上からハンカチをかけて、覆いをかぶせると、そこに何があるのかはもう分からなくなった。

 ふとシルヴィの言葉が脳裏をよぎった。


 狼の群れにひつじが一匹でも混じったら、群れの統率は取れない。


 シェリーは短く息をつくと、口元を決意の形にひきしめ、部屋の外へと歩み出た。

 漆黒の闇のなか、猛々しい煙の臭いがたなびいている。夜の匂いがした。



 広場にかがり火が焚かれていた。

 風にあおられ、炎が闇に躍る。かがり火は地を舐めるように燃え広がっては、ふいに火の腕を波打たせ、灰神楽を舞い、火の粉をちぎり飛ばす。

 きらめく火の粉が乱れ散るさまは、さながら獲物を前に舌なめずりする狼のようだった。

「シェリー。どうしてここに」

 かがり火の手前側で、誰かがはじかれたように立ち上がった。黒い影が切り取られたように炎をさえぎる。


 顔は逆光になって見えない。だが、はずむような声だけでルロイだと分かった。


「ずいぶん早いお目覚めね」

 腰に手を当て、シルヴィが近づいてきた。かがり火に照らされた尻尾が、ゆらゆらと挑みかかるように揺れている。

「あんたのことだから、部屋の中でがたがた震えて出てこないとばかり思ってたよ」

 森の木がざわざわとなびいている。病葉が飛んで火に炙られた。音を立てて燃えつきる。

「こんばんは、シルヴィさん」

 シェリーは平然とシルヴィの視線を受け止めた。そのままぐるりとかがり火を取り囲む全員の顔を見渡す。

「ごきげんよう、みなさん。良い夜風ですね」

 ひとりひとりの顔を、目に焼き付けるようにして見つめる。ほほえみながらもまばたきひとつしないシェリーの視線にたじろいだのか、何名かがつい、気圧されて眼をそらした。


「森の歌が聞こえる。良い夜だ」

 群れの中から返事が戻ってきた。声を上げたのはグリーズだった。力強い思いに励まされ、シェリーは表情をほころばせた。

 再びシルヴィに向き直る。


「シルヴィさんには、妹さんたちに手厚く看病をしてくださるように言い置いていてくださって、お礼の言葉のございませんわ。おかげですっかり気分が良くなりました」

 優雅な仕草でつまさきを引き、お辞儀してみせる。シルヴィは眼を白黒させた。鼻をむずむずさせながら、引きつった顔でかろうじて言い返す。

「な、何よ。それは、別に、そういうつもりじゃ」

 先制の痛棒をくらわしたつもりがのらりくらりといなされて、シルヴィは動揺の色を隠せない。


「ちょうど良かった」

 ルロイが近づいてきた。シェリーは、ルロイの頭にぐるぐると巻かれた包帯に眼をみはった。

「俺はシェリーとずっと一緒にいたい。でも、それに反対の奴もいる。もちろん狼の掟のこともあるし、いろいろ難しいのは分かってるけど、何とかシェリーが村に残れる方法を考えようと思ってる。だから」

 言いながら振り返る。

「まずは、シェリーがどうしたいのかをみんなに聞いてもらいたかった」

 視線の先で、アルマが手を振っている。胸元に青く光るネックレスが下がっていた。


「よく言うわ。あんな大怪我をさせられたくせに」

 刺々しくシルヴィが横やりを入れてくる。

「いい加減、眼を覚ましなよ。一匹一匹は弱くても、人間は群れをなして襲ってくる。あたしたちがどう考えようが、人間はバルバロを敵だと思ってる。その子がいる限り、もう、どうにもならないんだよ」

「うるせえ。たかがたんこぶの一つや二つで大げさに騒ぎ立てるんじゃねえよ。こんなのかすり傷だって言ってんだろ」

 ルロイがいらいらとたしなめる。


 シェリーは喧噪の中心に歩み出た。炎が頬を照らす。透き通る赤い火が熱を帯びた風となって吹きつけてくるかのようだった。

 おのずと耳目を集める。

 シェリーは静かに話し始めた。


「わたくしを追って、人間の兵士や、悪意を持ったものがこの村を襲う可能性があること、重々承知しております」

「分かってるならさっさと出て行け」

 誰かが闇の向こうで怒鳴った。石つぶてが飛んでくる。石はシェリーに届きもせず、足元に転がった。

「誰だ。石を投げたのは。出てこいよ。文句があるなら直接言え。卑怯だぞ」

 ルロイが唸りを上げ、闇を見回す。

 投げつけられた小石を、シェリーはおもむろに身をかがめ、拾い上げた。

「いいんです、ルロイさん」

 石を手のひらに載せ、しばらくの間、ころころと遊ばせる。誰が投げたのかも分からない、臆病な石。

 シェリーは息をついた。

 以前の自分なら、こんな小石ひとつに怖じ気づいて、投げ返すことすらできなかっただろう。

「そしてまた、わたくしのせいで村の皆様にご迷惑をおかけするようなことも決してあってはならないと考えております。ですから」

 言葉を切り、顔を上げる。あかあかと躍る炎が、眼に焼きつくようだった。


「わたくしはこの村を出て行くことにいたします」


 ルロイは一瞬、言葉を無くし、立ちつくした。かすれ声で、おうむ返しに聞き返す。

「……出て……行く?」

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