第69話 シャロン……おらん……すこ?

 シェリーは何度か深呼吸し、くちびるを噛んだ。おずおずとルロイの顔を見上げる。

 気持ちがうまく言葉にならない。

 ルロイと初めて出逢ったとき、シェリーはわざと名乗らなかった。今までは便宜上の名としてルロイが勝手にシェリーと呼んでいただけのことだ。まさかそれが本当の愛称だとは知りもせずに。

 否定すらできず、ただ受け入れるしかなかった。

 ルロイが自分のことをなぜと呼ぶのか、その理由を訊ねることすら怖かったから。

「いいよ、ゆっくりで」

 ルロイはかるく肩をすくめた。

 シェリーはこくりとうなずき、胸に手を当てた。かすかに汗をかいた手のひらの下で、心臓が高鳴っている。そんな音もきっとルロイの耳には届いているのだろう。頬が熱くなる。


「君のこと、何て呼べばいい?」

 ルロイの声はまるで遠い過去から吹いてくる風のように聞こえた。


 あの日。てのひらからこぼれた、いろとりどりの甘露キャンディ

 音符が踊るのにも似た、あまやかな旋律。透き通る音が地面に跳ねていた。あのときは拒絶の音に聞こえていたけれど、でも。


「わたくしは」

 言葉に詰まる。胸にじわりと熱いものがこみあげる。

 心の檻の向こうに見えた、きららかにまぶしい太陽の光。どこまでも続く菜の花畑。たゆたう甘い香り。青空に歌う小鳥のさえずり。遠い風のにおい。

 ずっと気付かずにいた。

 あの日、檻の中にいたバルバロの子どもは。煮えたぎる憎悪の眼差しで、無知という名の菓子を睨み付けていたあの少年は、きっと、たぶん──


 シェリーは目元の涙をぬぐって、顔を上げた。ルロイが一歩後ろへと下がる。

 シェリーは何度も瞬きし、胸元をかきあわせ、スカートの皺をひっぱり、幾度となく居住まいをただしてから、あらためて背筋をぴんとのばす。

 悪意を持って暴かれた真の名などではなく。

 本当の自分をルロイに知ってもらいたいから。

 意を決し、微笑む。


「わたくしは、シャロン・コランティーヌ・リディ・レスコンティと申します。シェリーと……今までどおり呼んでくださってかまいませんわ。よろしくお見知りおき下さいませ」

 スカートの裾をつまんでかるく膝を折り、会釈する。シェリーはまっすぐにルロイの黒い眼を見つめた。

 しばらくの間、そのまま、じっと見つめ合う。

 三角の耳がぴくりと忙しなく動いた。尻尾がぶんぶん揺れ始める。

「シャロン……おらん……すこ? えっと、ごめん。もう一回」

「シャロン・コランティーヌ・リディ・レスコンティ」

「シャロン・コランターラ・ナンターラ・デヨロシデスッケ?」

「シャロン・コランティーヌ・リディ・レスコンティ。ぜんぜん違います」

 ルロイはしばし考え込んだあと、眼をきらりと輝かせた。

「やっぱシェリーでいいや。長すぎて覚えられない」


「どういうことですか。せっかく本当の名前をちゃんと名乗ったのに」

 さすがに苦笑いする。ルロイの口元に強気な笑いがひろがった。

「シェリーが王女だろうが別の何かだろうが、結局はどうでもいいってことさ。俺にとってのシェリーは君自身以外の何者でもない。そんなことよりもさ、早く俺たちの家に帰ろう」

 ルロイはいたずらっぽく片眼をつぶった。探し当てるまでもなく当然のようにシェリーの手を握りしめ、かるがると腕に抱き上げる。


「最後にまだひとつ、やり残した仕事が残ってる」

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