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第60話 さとうかえでの木

 荷物を地面に下ろし、崖の上の切り株に腰を下ろす。森を渡ってくる風が心地よい。眼下には波打つように揺れ動く深緑の森が広がっていた。

 さしかかる太陽の色はすでに赤みを帯びていて、せつなく、遠く、物寂しい。

 ずいぶん、遠くまで歩いてきてしまった。


 バスケットには、jきいちごやおいもさん、湖の端に自生している燕麦えんばく。それから一週間に1回ぐらいしか取りに行けないけれど、甘い樹液を出すさとうかえでの木から回収したシロップ。

 シロップは甘くておいしいけれど、きちんと瓶に入れて蓋をしておかないと、すぐにハチやありんこたちが匂いをかぎつけ、真っ黒にたかってしまう。せっかく手に入れたのに、そんな悲しいことになってはがっかりだ。


 でも、これだけの分量があれば、大食漢のルロイが食べてもまだおすそわけできるぐらいのポリッジやジャムを作ってあげられるし、燕麦をオートミールにしてシロップをからめて焼けば、風味豊かな保存食グラノーラになる。甘い物好きなロギ婆に持って行ってあげたら、きっと喜んでくれるだろう。

 シェリーは、ロギ婆の喜ぶ顔を想像し、なんだか嬉しくなって口元をほころばせた。

 もしかしたら、くしゃくしゃな顔をなおいっそうくしゃくしゃにして、ありがとうね、お嬢ちゃん、と言ってくれるかもしれない。そんなちょっとしたひとことでも、シェリーには嬉しかった。

 つい、頬をあからめる。

 かごの中には、ほかにもいっぱい、いろいろなものが入っている。

 布を染めたり、バルバロのお祭りでタトゥーを入れたりするのに使われている葉っぱや草の根、綿の実、それからたくさんのケルメス《かいがらむし》。

 バルバロの女の子たちは、みんないつも毛皮や革の上着を着ているけれど、もし、この綿や染料を使ってうまく糸を紡いだり、織物を染めることができるようになったら、ごわごわした毛織物だけじゃなく、もっと柔らかくて薄手の服を縫ったり、目のさめるような赤い色に染めたりもできるだろう。

 新しい生活について、いろいろと考えてみるのは楽しかった。

 足元の葉っぱを摘んで、手慰みにくるくると回し、遊ぶ。


 今度、ルロイさんに頼んで高山に住む野生の子ヤギを生きたまま捕まえてもらおう。放し飼いにしたら育つ前に村のみんなが食べてしまうだろうから、その前に木ぎれを集めて、囲いを作って、お乳を出してもらうのだ。そうすればバターを作ることができる。ヨーグルトも。もしかしたらチーズも。

 他にも、いろいろ飼えそうな動物がいるはずだ。ヤギの次は何がいいだろう? ひつじ? にわとり? にわとりがタマゴを産んでくれたら毎日オムレツパーティだ。でも、森に野生の羊なんているのかしら……? それに羊毛を刈り取るなんて大変な作業がわたしにできるのかしら……?


 夕日が森の向こう側へと沈んでゆく。薄雲に覆われた西の空全体が、真っ赤に燃え上がるかのようだった。透き通って、まぶしい。

 今日一日、歩きづめに歩いて、足が棒のようになっている。くたくただ。すっかり疲れ果ててしまって、もう、一歩も動きたくない。早く帰らないと、夜道に迷ってしまう。そう思いはするものの、気も重く、足も痛くて、どうしても立ち上がれない。

 あの夕日の向こうに、人間の国がある。

 今はもう、自分の国ではなくなってしまったけれど。

 故郷の方角を見つめる。乾いた糊のように貼り付いていた笑顔が、やがて、青白く暗い表情へとかわって。剥がれ落ちてゆくのが自分でも分かる。


 シルヴィの言葉が耳にこびり付いて離れない。きっと、たぶん、ルロイも同じ気持ちなのだろう。

 奴隷にさらわれて、家族を殺されて、平気なはずがない。それでもルロイは生来の優しさから、人間であるシェリーを一度は受け入れようとしてくれた。でも、やっぱり……やっぱり、だめなのかもしれない。


 人間は、バルバロと共に生きてはゆけない。

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