第61話 帰りたい
女王であるおばあさまは、シェリーが大きくなるまでは王位は誰にも譲らない、と口癖のようにおっしゃっていた。お父さまは、女王の娘であるシェリーの実の母が亡くなったあと、すぐに次のお妃さまを娶られた。新しいお妃さまとの間にお子様はいらっしゃらない。だから、王位継承権はまだシェリーにある。
でも、いつのころからだろう。宮廷を支える廷臣たちの間に、ひどくよそよそしい風が吹くようになったのは。
ふと、懐かしい友だちの顔が思い浮かんだ。
ユヴァンジェリン・クレイド。
最初はお妃さまの侍女として宮廷に上がってきたのが、やがておばあさまの弟であるマール大公に見初められ、結婚し、王族の一員となり、マール大公妃の称号を得て、シェリーを守ってくれるようになった。
大切な友だちだ。
(宮廷の雰囲気がこんなにも悪くなったのは、お妃さまが何か悪いことを企んでいるせいですわ)
何度もそう忠告してくれた。宮廷は今や、おばあさまを戴く
信じられなかった。お父さまやお妃さまにかぎって、そんなことなどあるはずがない。そう言ってずっと一笑に付してきた。
でも、現実は違っていた。
事実、シェリーを疎ましく思う何者かによって、森に放逐され、国を追われることになった。よもや国民全員に慕われているおばあさまに手を掛けるようなことまではしないだろうが、やはり心配でたまらない。
おばあさまを守れるのはわたしだけだったのに。わたしがもっとしっかりして、城内の不穏な空気にも目を光らせていなければならなかったのに。
ぽつん、と涙がこぼれた。
人間同士でさえこんなにもみにくい仲違いをしているというのに、どうしてその人間が、種族の違うバルバロとの宥和を謳えるだろう。
ずっと、何も、知らずにいた。
いつまでも、幸せな日々が続くと信じていた。
ずっと人任せに生きてきた。運命に流され、捨てられて、ルロイに助けられて、ルロイに愛されて。それもまた、自分では幸せだと思っていた。
でも、違う。
ただ、知らなかっただけだった。知ろうとしなかっただけだった。考えようとしなかっただけだった。
村の人の気持ちも、受け止めるには重すぎるルロイの過去も、何も知らず、何も考えず、その優しさにただ甘えて、いつまでも無為無風の日々が続くと思い込んで。
「帰らなくちゃ」
シェリーは誰にともなくつぶやいた。
でも、いったい、どこへ帰ればいいのだろう。
帰りたい。
膝を覆うワンピースの裾を、シェリーはぎゅっと掴んだ。くしゃくしゃにしわが寄る。涙がにじんだ。かまわずに、もっとすがるようにして握りしめる。そうしていないと涙がこぼれそうだった。
帰りたいのに、その帰りを待っていてくれる人は、もういない。人なつっこい黒い瞳。太陽みたいな笑い声。ぶんぶん音を立てて揺れる尻尾。あの家に、ルロイのいるあの家に帰りたい。ずっと一緒にいたい。でも。
風が吹いてゆく。夕日がますます燃え上がるようなあかね色に変わる。
シェリーの金髪が、燃えるような朱色に染まってゆく。
「また、迷子になっちゃった」
シェリーは、眩しすぎる夕日から眼をそむけ、顔を伏せた。切り株に深く座り直し、膝をかかえて、顔を埋める。
そのとき、背後の茂みが、がさりと鳴った。
「……ルロイさん?」
シェリーはあわてて涙をぬぐい、かごを抱いて立ち上がった。スカートについた草と一緒に気鬱めいた気持ちを振り払う。こんな泣き顔見られでもしたら、ルロイを困らせるだけだ。つとめてけなげで明るい表情を作り直す。
「ごめんなさい、随分遠くまで来ちゃって……もっと早く戻るつもりだったんですけど……」
藪を乱暴にかき分けながら誰かが近づいてくる。返事はない。シェリーはなぜかぞくりとした。心許なく手を握り、胸元へ押し当てる。
「ルロイさん……じゃない……?」
森の奥を見透かすようにして、うかがう。荒々しく枯れ木を踏み荒らす足音が聞こえた。暗い影が近づいてくる。光るものが見えた。
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