第58話 あたし、あの子の秘密を知ってるの

「出……きます。さ……ら。シェリー」

 肝心なところが読めない。ルロイは息を吸い込んだ。人間の文字だ。シェリーに文字を教えてもらって少しは読めるようになったが、知らない単語はどうしようもない。

 バルバロの村に、人間の文字が読めるものはさほど多くない。読めるとしたら。

「あいつだ」

 ルロイは石盤を持って家を飛び出した。


 一直線に目指す家へ向かう。ルロイはドアを蹴飛ばして中へと躍り込んだ。

「おい、グリーズ。邪魔するぞ」

「ぎゃあああああああ!」

「あら、ルロイ。なあに?」

 グリーズはちょうど、アルマと良い感じにからまって、くんずほぐれつしている最中だった。

「何しに来たんだルロイ。あっちに行け、馬鹿。見るな」

 グリーズは真っ赤な顔で怒鳴る。

「何でだ」

「見りゃ分かるだろう」

「見るなって言っといて見りゃ分かるって何だよ」

「だから見るなって言ってんだよ」

「もう見たよ。そんなことよりシェリーを見なかったか」

「見てない。っていうかこっち見んな」

 もはや半分諦めたのか、グリーズが弱々しくかすれた声で抗議する。

「じゃあ、これを見てくれ」

 ルロイは強引にグリーズへと近づいた。石盤を突きつける。

「だから見るな。見せるな。見せられても困る」

「これ、何て書いてあるんだ」

 突き出された石盤の文字に気付いたのか、グリーズリーは脂汗のにじむ額をこすった。

「人間の文字か」

「だと思う」

「眼鏡」

 グリーズは手を突き出した。

「ほらよ」

 眼鏡を手渡すと、グリーズは精一杯の威厳を保った咳払いをして、それをかけた。鼻梁にのせた眼鏡を収まりよく動かし、文字を追う。

「ええと、『出かけてきます。さとうかえでの林にいますから。シェリー』って書いてある」

「へ?」

 ルロイは、全身の力が抜け落ちるのを感じた。膝がふらつきそうだった。腑抜けたていで力なく笑う。

「それだけ?」

「それだけだ。一緒に暮らしてるんなら、これぐらいの字は読めるようになっとけ。文字とか数字とかって、人間にはものすごく大事なものらしいぞ」

「そうだよな」

 ルロイは肩を落とした。自嘲のかすれた笑いがもれる。

 読めない手紙。

 伝わらない思い。

 まるでシェリー自身を象徴するようだった。どんなに言いたいことがあっても、自分にはまったく伝わっていなかったのかと思うと、あまりにも情けなく、心苦しい。

 胸の奥のほうで、後悔とか、欲情とか、焦がれる思いとか、いろいろなものがぐるぐると渦を巻いて、狂おしく、黒く、うねる。

 もしかしたら、森で不便な暮らしを強いられるより、バルバロの皆から敵視され続けるより、人間の世界に戻って、人間らしい暮らしをしたほうがずっとシェリーにとっては幸せなのかもしれない、と。

 そんな言葉ばかりが脳裏をかすめる。


 否定したかった。でも、できない。

 シェリーが好きだ。人間だとか、バルバロだとか、そんなことは関係ない。ただ、ただ、一緒にいたかった。人間だから敵視されるというなら、せめて自分が身代わりになってでもシェリーを守りたかった。

 だが、シェリーの気持ちを考えたら、もう二度とそんな自分勝手で無責任なせりふを吐けるとも思えない。

 だからこそ。

 シェリーの気持ちを、シェリー自身がどう考えているのかをきちんと聞こう。

 ちゃんと話をして。ちゃんと話を聞いて。それから二人でこれからのことを考えよう。

 たとえ結論がどうあろうとも。


「分かった。ありがとう。助かった。今度、時間があるときに読み書きを教えてくれ」

 ルロイはその場を立ち去ろうとした。グリーズの声が追いかけてくる。

「ルロイ」

「なんだ」

「まさか、その置き手紙、勘違いしてたんじゃないよな」

「何を」

 ひどく疲れた気分だった。ルロイはろくに顔も上げず、のろのろと聞き返す。いろいろなことが、無性にまだるっこしく思えた。グリーズは眉根を寄せた。

「いや、違うならいいんだ。さっき飛び込んできたときのお前の顔が、あんまりにもただならぬ様子だったから」

 ルロイは投げやりに言い返した。

「読めなきゃ勘違いのしようもないだろ。どうせ俺は馬鹿だよ。面と向かって言われなきゃ分からない馬鹿だ」

「確かに」

「……少しぐらいは遠慮して否定してやろうとか思ってくれてもいいんじゃないか」

「でも、そういう一直線に馬鹿なところがお前らしいんだと思うが」

 ルロイはもどかしく笑った。やっぱりグリーズは良い奴だ。そんなことは簡単に分かるのに、自分のポンコツ部分の直し方となると、これっぽちもどうしていいか分からない。


「もしかして、シェリーちゃんを探してるの?」

 ぽっちゃりアルマが官能的な腰の振り方をした。

 ふくよかなしっぽをひょいと持ち上げて、甘く熟れた果物みたいな、メス特有の臭いをふわりと漂わせる。とたんにグリーズは、変な呻きを上げて動かなくなった。だが、ルロイは不思議と何も感じなかった。アルマの裸を見ても、何とも思わない。


「シェリーちゃんなら、お洗濯にでも行ってるんじゃないかしら」

「洗濯? また?」

 ルロイはシェリーが抱えていた洗濯物のことを思い出した。虚を突かれて聞き返す。

「今日のぶんの洗濯はもう終わったとばかり思ってた」


「あの子、仕事が遅いって、みんなに笑われてるみたいだけどねぇ……?」

 アルマは、しおしおに萎れたグリーズリーに甘いキスをしながら言った。

 豊満すぎるおっぱいが、たわわに実った森の果物みたいにぽってりと揺れ動いている。

「あたし、あの子の秘密を知ってるの」

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