第57話 覚えていないなら、思い出させてあげようか

 ルロイは眼を閉じた。記憶の底からどす黒い思いがふつふつとにじみ出してくる。

 首につけられた鎖は、心と身体の双方を縛って離さぬ古傷そのものだ。薄汚い檻の奥から見上げた、無邪気な微笑み。怖いぐらいに天真爛漫な笑顔。あの笑顔がなければ、今でも人間を憎悪し続けていただろう。

 だが、もし、その笑顔が。

 偽りだったとしたら。

 あの笑顔も、愚かすぎる純粋な優しさも、餓死寸前に見た非情のまぼろしでしかなかったのだとしたら。

 本当は、あの王女も他の人間たちと同じように、バルバロの姿を見ただけで蔑みのまなざしをくれるような冷酷な女だったとしたら。


 まさか、シェリーも、本当は、他の人間たちと同じように──


「そんなことはない」

 心臓の打つ音がますます大きく、激しく、耳元近くで叩き鳴らされているように思えた。自分自身にさえ聞こえないほどの小さな声で、ルロイはうめく。すべてを押し流す濁流にも似た憎悪が、わずかに残る希望の防波堤を乗り越え、へし折ってゆく。


「何がないって?」

 シルヴィは奇妙な薄い笑みを浮かべた。腕の中の妹たちのうち、ひとりの尻尾を掴んで、ぶらんとぶら下げる。からまった毛糸の玉のようだった。

 シルヴィの手元で、狼っ子は訳も分からず、ただじたばたと、短い手足を振り回して暴れる。

「ねえさま、やめて。くるしい」

「ねえさま、ノーラをはなしてあげて」

「ねえさま、やめて。ノーラ、くるしいってゆってる」


「やめろ、シルヴィ」

 ルロイは呆然とつぶやく。

 こんな光景ならば、何度も見た──火の中に、赤く熱せられた鉄の棒が突っ込まれているのを。人間が黒百合ノワレの紋章がついた焼き印の棒を手に取るのを。幼いバルバロが踏みつけられているのを。その眼が、恐怖に見開かれるのを。


「もし、本当に覚えていないなら、思い出させてあげようか」

 シルヴィの口元が、泣き顔のようにゆがむ。声が震えていた。

「……人間どもの兵士が村にやってきて母さんたちを殺し、あんたやあたしを奴隷として連れてった日のことをさ」

 肉が焼け焦げる臭い。首筋に奴隷の焼き印が捺される。記憶の中の幼いバルバロが悲鳴を上げた。



 突然。

 背後から乾いた音がした。ルロイは反射的に振り返った。どこから転がってきたものか、手提げのかごが地面を転がってゆく。ばらけて落ちた包帯が枯れ木にからまり、白く風にたなびくのが見えた。

 蒲黄の傷薬。油紙。竜血樹の樹液を混ぜた膏薬。一面にちらばっている。

 誰かの影が動いた。家の陰に身を隠し、茫然と立ちつくしていたその影は、やがて血闘を見定めに来た村の者たちの向こう側へとまぎれ込んで見えなくなった。


 ルロイは耳をそばだてた。

「何だ、今の音」

「さあね。知らない」

 シルヴィはぎごちなく目をそらす。妹たちは眼をまるくしてシルヴィを見上げた。

「ねえさま、何でそんなこというの」

「いわなくていいの?」

「なんでだまってるの?」

「お黙り。妹たち。静かにおし」

 シルヴィは尻尾を強く振って妹たちの口を塞いだ。その声は苛立って怒っているようにも、あざとく泣いているようにも聞こえた。



 ルロイは何度も家の前でうろうろとしたあと、一つ息をついて、ドアを開けた。

「ただいまー、シェリー。帰ったよ」

 つとめて明るい声を出す。だが返事はない。

 家の中は、奇妙にがらんとして、薄暗かった。寒気を帯びた隙間風が首筋を撫でる。


「シェリー」

 ルロイは足音を立てないよう、そっと部屋に入った。もしかしたらベッドで眠っているのかもしれない。そう思って寝室をのぞく。

 ベッドは空だった。シーツも乱れたまま。まるで、寝起きのままあわてて飛び出したかのようだ。

 背中がいやな風になぶられるかのようにざわついた。普段のシェリーなら、絶対にこんなだらしないことはしない。

 ごくりと唾を飲み込む。シェリーの痕跡は確かにまだ残っている。

 改めて室内を見回す。

 引き出しが乱雑に開けられていた。いろいろと中身がこぼれている。まるで何かをあわてて取り出し、そのまま閉めるのも忘れてしまったかのように見えた。何がないのか、記憶を手繰ってみる。救急箱代わりのかご。包帯、あて布、それからはさみもない。傷薬もない。


 ルロイは心臓の位置を手で押さえた。喉の奥に何かがつまったような、変な動悸がこみ上げてくる。気味の悪い汗が額ににじんだ。


 おもむろにテーブルを振り返る。エプロンが放り投げられている。さっきまでにこにこと微笑んでいたシェリーの面影が、くしゃくしゃになったエプロンと重なってぼんやりと浮かぶ。

 テーブルの上に、石盤が置いてあった。何か書いてある。

 ルロイはわずかに震える手で石盤を取った。

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