第52話 服従と隷属の悪魔

 幼い頃、人間のにあって囚われの身になった記憶が、堰を切ったようにあふれてきた。

 逃げようとして引きずり倒されたとき、頭上に黒々と迫る人間の手が見えた。ぎらつく武器が見えた。笑い声が聞こえた。動けなくなるまで鞭打たれ、首に鎖を付けられ、ろくな食事も与えられぬまま働かされた挙げ句、他の仲間を逃がしたことをなじられ、罰として檻の中で死の寸前まで放置され続けた。


 あのとき。


 あれは、何歳ぐらいの少女だっただろうか。当時の自分と、それほど変わらないようにも、遙かに幼くも見える人間のこどもが近づいてきて、こう言ったのだ。


(ねえ、どうしてそんなところにすわっているの。せまくない? だいじょうぶ?)

 檻の中のけものに向かって、何の屈託もなく少女は語りかける。

 やわらかそうな、傷一つない真っ白な手をさしのべて。

 はちみつみたいな色の髪をふわふわとなびかせて。

 春の日差しに揺れる菜の花のように、無垢に笑って。


(わたくし、シャロン・コランティーヌともうしますの。シェリーと呼んでくださってかまいませんわ。よろしくおみしりおきくださいませね。それで、あなたのおなまえは)


 檻から出してくれるのか。そんなかすかな希望にすがり、名を名乗る。

 だが、少女は、ルロイと彼女との間に何があるのか、気付こうともしなかった。目の前に見えているあからさまな壁を、その境界を、当たり前と信じて疑わぬようだった。

 檻。

 檻越しに、次から次へと、魔法のように差し出される甘い菓子。宝石のように透き通ったキャンディ。見たこともない真っ白なパン。クリームのたっぷり乗ったケーキ。

 それらを見るだけで次から次へと唾が沸いて出た。腹が鳴った。食いたかった。恥も外聞もバルバロの矜持も忘れ、与えられたエサに口を付けたかった。さもしくも家畜のように。


 幼かったルロイは、天使のように愛らしい少女の顔を睨み付けた。シャロン・コランティーヌ・リディ・レスコンティの手からこぼれ出るあまやかな香りは、服従と隷属の悪魔がささやく甘美な誘惑だ。

 檻の向こうには、彼女の住む世界のすべてがあった。甘い菓子。美味い飯。贅沢。喉から手が出るほど欲しかった。鉄格子の彼方に望む菜の花の草原。春を告げる小鳥のさえずり。真っ青な空。まぶしすぎる日差し。そのすべてが。


 憎悪にまみれた汚物に見えた。なぜなら。


 少女が名乗ったその名。


 それは、バルバロの国へと攻め込み、森を荒らし、何百人ものバルバロを殺した人間の国の王女。ルロイの親を殺し、村を焼き討ちし、狩り集めた子供を奴隷として働かせていた人間の国の──憎い、憎い、憎い、殺したいほど憎い王女の名だったから。



「当てつけ」

 シェリーの声に、ルロイは我に返った。その表情に愕然とする。

 シェリーは、ふるえるまなざしでルロイを見つめ返していた。唇が青い。

「それは、どういう……」


「ごめん。怒鳴ったりして」

 なぜ、シェリーの前で、そんなことを言ったりしたのだろう。思ってもいないことを──

 違う。心の底でひそかにそう思っていたからこそ、思わず口に出してしまったのだ。

 肺がきりきりと痛んだ。

「俺、ちょっと外で頭冷やしてくる」

 逃げるように言い置いて、背を向ける。シェリーの声が追い掛けてきた。

「待って、ルロイさん。何を怒ってらっしゃるのか、わたしには」

 ルロイは立ち止まった。自分がどんな表情をしているのか、ろくに考えもせず衝動的に振り返る。

 シェリーはとたんに息を呑み込み、身をこわばらせた。そのまま何も言えず、口ごもる。


 のシェリーを、たとえ追われていたとはいえ、強引にバルバロの――人間から見れば野蛮な獣の群れへと──連れ込んだのは事実だ。

 世間知らずなシェリーが抗わないのをいいことに、一方的に発情して、一方的に好きになって。自分勝手な思い込みで、ずっと、このままつがいとして傍にいてくれたらいい、だなどと思った。

 人間がバルバロを奴隷として檻に閉じこめるのと、山深く、一人ではとうてい逃げ出すこともできないバルバロの村へ人間を連れ込むのと、いったい何が違っていたというのだろう。自分もあのときの王女と同じだ。檻越しに甘い餌を与えて、平然と飼い殺しにしようと──


 そんな状態で、本心など言えるわけがない。

 シェリーが嘘をつくのは本当のことを言えないときだけだ。

 本当は怖くて、怖くて、たまらなかったに違いない。

 顔を見れば分かる。なのに、どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。それは、自分が。


 鈍感で。

 我が儘で。

 独りよがりで。


 馬鹿だからだ。


 突きつけられた事実は、さすがに自分でも胸が悪すぎた。白々しく背伸びをし、首を左右に振って骨を鳴らす。

「あー、ま、そうだよな」

 両手で自分の頬を挟んで叩く。その仕草で自分自身の気持ちに蓋をした。所在なく笑ってみせる。

「俺が、無神経にシェリーのこと好きになってまとわりついてただけなんだ。だから、そんなふうに遠慮されると逆にこっちが困るっていうか」

 この期に及んでも、まだ、へし折られた自意識のかたまりが邪魔をする。ひたすら、みじめなこの場から逃げたかった。シェリーの視線が居たたまれない。

「まったくシルヴィのやつ、どうせ言うなら、直接こっちに言えばいいのにな。いやあ、マジ、ごめん。俺ってマジ無神経だ。ホント、ごめん。謝る。もう少し気を遣えたらよかったんだな。あ、それと服、洗ってくれてありがとうな。これからは自分でやるよ。そしたら俺、出かけてくる。今日は遅くなるから、自由にしててくれて構わない」

 頭の中は真っ白なのに、つまらない、本当にどうでもいい上っ面の言葉ばかりがすらすらと出てくる。

「ルロイさん」

 シェリーの声が耳に突き刺さる。ルロイは声を振り払うようにして部屋を出た。後ろ手に戸を閉める。

 それきり、シェリーの声は聞こえなくなった。

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