第50話 狼なんか怖くない
シェリーの身体をベッドに下ろし、傍らに腰を下ろす。
「ちゃんと出かける準備もする。言っておくけど、ホントに出かけたくないんだからな? せっかく戻ってきたのにシェリーと一緒にいられないなんて」
シェリーは、タオルに顔を埋めたまま、ルロイの胸に頭をもたせかけた。
「わたしも、ルロイさんとずっと一緒にいたいです。……ごめんなさい。ルロイさんのお気持ちも分からないで」
「うん、いや、まあ、半分、いや九割がた、シェリーといちゃいちゃしたいだけなんだけどね。ああ、もう面倒臭いな、まったく。服が乾いたかどうか見てくるよ」
ルロイはシェリーをベッドに残し、立ち上がった。シェリーの声が小さく後を追いかけてくる。
「あの、お約束というのは……どなたと?」
「何?」
ルロイは半分ドアの向こうに身を乗り出しながら、首をねじって聞き返す。聞こえていない振りをしたが、本当はちゃんと聞こえている。
「あ、もう乾いてる。いや乾いてないな。まあいいや、適当に着よう。で、何だって」
ルロイは半乾きの服を持って部屋に戻った。シェリーは口ごもった。眼を伏せる。
「あの、いえ、何でもありません」
「うん」
問いつめるのも居心地が悪いような気がして、ルロイもシェリーから目をそらした。黙って服の袖に手を通す。生乾きのシャツが肌に冷たい。
ぺたりと貼り付く感触がわずらわしかった。それでも強引に着る。ルロイは息をついた。乾くのを待っている時間はない。
ぼそりと言う。
「シルヴィと、もう一人、アドルファーって言う奴だ」
「シルヴィさんとのお約束でしたか」
シェリーは、胸をなで下ろすような長い吐息をついた。ゆるやかに微笑む。
「でしたら、なおさら急がなければなりませんね」
「何で」
けげんに思ってルロイは聞き返す。
シェリーはタオルの端をぎごちなく握りしめた。
「さっき、湖の洗い場で、シルヴィさんにお会いしました。ルロイさんや皆さんが狩りからお戻りになったことを、親切に伝えに来てくださったんです。ルロイさんからの言付けだとおっしゃって」
「あいつが? いや、まあ、確かに用があるならシェリーが戻ってからにしてくれとは言ったけど」
妙な胸騒ぎがした。シルヴィは利にさとく、抜け目がない。わざわざ出向いて用件を伝えてくれたりするような、そんな気だての良いたちではない。
ルロイは、シェリーを傷つけないよう、用心深く聞き返した。
「あいつ、何か言ってたか」
「あの、」
言いかけて、シェリーは言葉を呑み込んだ。視線がもどかしげに泳いで、そのまま影を落とすかのように伏せられる。
「いえ、別に」
かすかに白くなった唇が、嘘を雄弁に語っていた。
「何か言われたんだな」
ルロイは声を低めた。
「あの、本当に、その、大したことではないんです」
シェリーは怯えたように声を吸い込ませた。
「だったら答えて」
語気が強まるのが自分でも分かる。シェリーの青い眼に、一瞬、揺れ動く狼狽の色が宿った。シェリーは息を吸い込んだ。
「いいえ」
顔を伏せ、再び上げたとき、驚いたことにシェリーはにこにこと微笑を浮かべていた。
「本当に何でもありませんわ。わたしの髪の色が金色で、まるでふわふわしたひつじみたいだって」
その時のことを思い出すように続ける。
「マーラちゃんとトーラちゃんとノーラちゃんが、まるで輪唱するみたいに歌ってくれましたわ。ひつじーひつじーひつじー、って。わたし、そんなにひつじみたいに見えるんでしょうか」
ルロイは無言でシェリーの眼を見た。シェリーは微笑みの表情をうかべたまま、にこやかに眼をほそめている。
その表情には見覚えがあった。初めてシェリーと会った日。バルバロの村に連れてきたときに浮かべていたかりそめの微笑だ。ずっと何かに似ているとは思っていたが、それが何か分からず、気に懸かっていた。
今、唐突に思い当たる。
あれは、羊の目だ。
狼の群れに取り囲まれた迷子の羊だ。狼なんか怖くない、攻撃してくるはずがないんだから、と。腹の底から滲み出る恐怖の匂いをむんむんと振り巻いて、素知らぬ顔で歩いている。
本気で逃げたら、羊だと気付かれるから。
何食わぬ振りで、笑ってみせる。
怯えきった羊の目だった。
「本当のことを言って」
ルロイは繰り返した。
シェリーはかたくなに首を振る。
「何も隠していません」
「嘘だろ、それ」
いらだちがこみ上げる。ルロイは言ってはならない言葉を口走った。
「まさか、俺が怖いから本当のことを言わないんじゃないだろうな」
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