第49話 どす黒い

「ルロイさんが働き過ぎで無理をなさったら、身体をこわすって皆さんおっしゃってました」


「はい?」

 ルロイは眼をまるくして聞き返す。シェリーは、子どもっぽい仕草で顔をくしゃくしゃにさせた。みるみる頬が赤くなってゆく。

 身体をちぢこめ、消え入りそうな声をつまらせる。

「……心配なのです」


 ルロイは笑った。今までぎらぎらと燃えさかる火のようだった身体の中の獣が、突然聞き分けが良くなって、ちょこん、とおすわりするかのようだった。

 身体の中がほんのり暖かくなった。いとおしさがこみあげる。

「それ、勘違いだよ」

 爪の先でほっぺたの泡をつつく。

 シェリーは喘ぎ声に驚きを混じらせて口ごもった。

「違うんですか」

 ゆるゆると手を肌に這わせたのち、ふいに残酷に突き放したくなって、ぱっ、と手放す。

 泡で滑り落ちそうになる。反射的にシェリーはルロイの身体にしがみついた。ぐらぐらと揺れる支えを求め、ルロイの手を掴む。

「ぁっ……やだ、放さないで」


「ごめんごめん。さっき、さんざん俺の気持ちをもてあそんでくれたお礼だよ」

「ぇえっ……わたし、何もしてません」

「めちゃくちゃ翻弄されまくったぞ」

「んっ……うそです……そんなことしてませんてば……ぁっ……触っちゃだめ……いじわる言わないでください」

「心外だな。俺がシェリーに触るのは意地悪なの? シェリーが俺を誘うのは意地悪じゃなくて?」

「んっ……んんっ……あんっ……誘ってなんかいません」

「離さない」

 ルロイは、ゆっくりと低く落ちてゆく声でシェリーの耳元にささやいた。

「絶対に離さないから」


 もがいていたシェリーの息が、止まる。


 であるシェリーの身体は、強靱なバルバロの体躯とはまるで違う。ほんの少しでも力の加減を入れ間違えたら、すぐにぽきん、と音を立てて骨ごと折れてしまいそうなほどかぼそく、心許ない。


 それでも、強く、壊れそうなほど強く腕の中にシェリーを抱いていれば。

 その、愛おしくもいとけない光に洗われていさえすれば。


 今、こうやって感じているやすらぎの思いとはまるで違う──かつてシェリーではない別のどもによって与えられた、金属を噛むような苦い恐怖、どろどろと煮えたぎる憎悪、今も首筋に残る屈辱の痕跡を。

 を、を抱くことで、かろうじて捻り消せるような気がした。言葉にするどころか、心にすらのぼせることができない、二律背反のどす黒い感情を。


「ルロイさん」

 声音に秘めた闇の、どこを気取られたのか。

 シェリーは、はっと顔色を青白くさせた。濡れたしずくが、睫毛に、ぽつん、と白くきらめいている。

「どうか……なさったのですか?」

「別に? 何も? ないよ」

 ルロイはするりと笑い逃れて嘘をつく。

「シェリーは心配性だな」

 ルロイは、手早く湯を浴びてせっけんを流した。シェリーの濡れた身体を頭からすっぽりとタオルで包み、わざとくしゃくしゃと乱暴にかき回す。

 これ以上、眼の奥に宿る闇を見られたくなかった。



「行こう」

 タオルで包んだシェリーを抱いて、そっと耳打ちする。視界をふさがれたシェリーは、うろたえた様子で声を泳がせた。タオルからふわふわと手だけが飛び出して、ルロイの思惑を探っている。

「どこへですか」

「ベッドだ」

「ですから、約束のお時間が」

「大丈夫。すぐ済む」

 ルロイはシェリーの身体の下へ手を差し入れ、お姫様のようにかるがると抱き上げる。

「ああん、もう、ルロイさんったら」

 シェリーは息苦しいタオルを引き下げ、可愛い怒りの眼差しでルロイを睨みつける。ルロイはにやりと眼をほそめた。

「こうするとまるで、ホンモノの王女様みたいだな」


 シェリーは青い眼をぎくりとしたように見開いたあと、うろたえた様子で口を半開きにし、何かを言いかけた。

 ルロイは気にせず、シェリーを抱いてベッドへと運ぶ。

「大丈夫。何もしないから」

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