第37話 さもないと

「静かにしなさい、妹たち」

 狼っ子たちがよってたかって質問攻めにするのを、シルヴィはうっとうしそうに尻尾で追い払う。狼っ子たちは、あっけなく気をそらされ、猫じゃらしにむらがる仔猫のようにシルヴィの尻尾を追いかけて遊び始めた。

「あ、いえ、その……そんなことは」


「分かってるって。ルロイも、みんなも、元気すぎるぐらい元気よ。オスどもがぶちのめされたことなんて、昔、あんたたちの軍隊が攻めてきて奴隷代わりに仲間を掠って行ったとき以外には見たことないし」

 流れる水に、ひとしずく。青白い銀の毒をしたたらせるかのような悪意の音色に、はっとして言葉を失う。

 胸の奥のかすかな痛みが、きん、と蛍色の光を放って跳ね上がった。


 ――バルバロの男たちが村全員で狩りに行くのは、の兵士と鉢合わせする危険を避けるためだ。

 人間の持つ飛び道具は、バルバロの持つ武器よりも、遙かに強く恐ろしい。

 たやすくは踏み込めない僻地で暮らしているとはいえ、いつ、どこで、人間のに出くわすか分からない。用心するに越したことはない。


 幼い頃に見た、心の傷――

 檻に閉じこめられ、全身ぼろぼろにむち打たれやせ衰えた、バルバロの子ども。足枷をはめられ、鎖で縛られ、棘だらけの首輪をつけられて、うち捨てられていた。

 うなじに黒い火傷のあとがあった。奴隷の焼き印だった。


(おなかすいてらっしゃるのね)

(シェリーのおかし、さしあげますわ)

(なんでおたべにならないの)

(せっかくさしあげましたのに、すききらいしてはいけませんわ)

(どうしてですの。せっかく、もってきたのに。いじわるなおかた。おなかがすいてるなら、すききらいしないで、たーんとめしあがってくださいませな)


 餓えて、死にそうになっているにもかかわらず。

 そのバルバロは、檻越しに手渡される施しのケーキになど、目もくれようとしなかった。

 その理由を。

 幼いシェリーは知らなかった。何も知らされていなかったのだ。バルバロは奴隷だと素直に信じ込んでいた。大人が、皆がそう言うから、牛馬と同じ家畜なのだと信じていた。バルバロがどこから来るのか。なぜ人間の街にいるのか。何をさせられているのか。何も知らなかった。


 煮えたぎる黄色い目で、シェリーの背後に広がる空を睨みつけていたバルバロの子ども。

 その、火を宿らせた眼で。

 バルバロの子どもはいったい、何を見ていたのか。

 ふわふわしたドレスを着たシェリーの他に、差し出されたお菓子のほかに、何が見えていたのか。

 檻越しの世界は、いったい、どんなふうに見えていたのか。食い入るように空を睨み据えていたその眼。ぎらぎらと燃えていたあの火は、何だったのか。何を思い、何を考え、檻の中から、外を――


「ごめんなさい」

 シェリーはうつむいた。シルヴィの視線が、あの日の記憶に突き刺さる。

 自分は何も知らなかった。何も見ていなかった。そんなものは言い逃れにしか過ぎない。呑み込んだ言葉は罪悪の苦い味がした。


「気にしないで。あたしはについて言ってるんであって、別に、あんた本人のことを言ってるんじゃないから」

 シルヴィは取りつくろった、しらじらしい笑みを浮かべる。

「わざわざこんなところまで嫌みだけ言いに来るわけがないでしょ。ルロイがあんたを探してたよ」


「えっ、ルロイさんが、わたしを?」

 シェリーは、先ほどまでとは打って変わって声を弾ませた。つい、手にした洗濯物を取り落として、腰を浮かせる。

「じゃ、早く帰ってごはんの支度しなくっちゃ」

「急ぐことないよ。どうせあいつら、夜中までどんちゃん騒ぎしてんだから、やることちゃんとすませてから帰った方がいいよ。さもないと」

 シルヴィはふと口をつぐんだ。いわくありげな表情で、ぺろりと下唇を舐める。シェリーは小首をかしげた。

「さもないと?」

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