第19話 シェリー
「お知り合いに、その名前の方が?」
「いや、別に、そういうわけじゃねえけど」
少女は黙り込んだ。こわばった笑いを浮かべている。その笑いが嘘だということは、今日一日、少女の表情を見ていればすぐに分かった。
「嫌か?」
少女は、顔を上げた。眼の奥に不安が見え隠れしている。
「いえ、そうでは……少しびっくりしただけです」
「嫌ならやめようか」
少女の瞳が揺れ動いた。
「いいえ」
やがて、少女はかぶりを振った。
「そのように呼んでくださってかまいません」
どこか他人事のようだった。それでも少女が納得してくれたことに、ルロイはほっと一安心した。
とにかく、これであれこれと余計なことを考えずにすむだろう、と思った。名前さえ決まれば、少女のことが全部分かったも同じだ。何より話しかけやすい。
相手の名前を呼ばずに、おい、とか、おまえ、とか言って話しかけることがどんなに気まずい気持ちになるか、今日一日でルロイは嫌と言うほど思い知ったのだった。おまえ、だといかにも相手を下に見ているようで言いづらいし、かと言って貴女とかはもう、考えただけでも鼻持ちならないむず痒さに首の毛が逆立ちそうになる。
「今、呼んでみてもいいか」
少女は大きく見開いた青い眼でルロイを見返した。
「今、ですか?」
ルロイはわざとらしくむっとした顔をして見せた。
「だから、その、何て言うか、練習だよ。身に覚えのない名前を急に呼ばれたら、ぱっと答えられないだろ」
少女は眼を閉じた。胸の奥底に押し込めていたような吐息を、ゆっくりとつく。
「わたしの名前」
「そうそう。じゃ呼ぶぞ。呼ぶからな? いいか呼ぶぞ?」
「はい。どうぞ。お願いします」
少女は、ルロイを見返した。こくりとうなずく。
青い眼。はちみつ色のふわふわした髪。ほんのりと頬に朱が射した白い肌。全身で触れたときのことを思い出す。すべすべしていて、やわらかくて、雲のように軽かった。
なぜか、すぐに声が出ない。唇をしめらせ、耳をぴくりと回して動かした。尻尾が情けなくたらりと下がる。
「え、えっと……シェリー?」
自分でも何だか、頼りなさそうな声に聞こえた。
「はい」
「じゃ、次は名前を聞かれた時の練習。えと、お前の名前、何て言うんだ」
「わたくしは、シェリーと申します。よろしくお見知りおきくださいませ」
なぜか、ふいに。青空の向こうの黄色い花が見えたような気がした。風が運ぶ春の匂い。菜の花の匂い。かすむ空。甘ったるい香り。
それは、シェリーという名前が呼び覚ます遠い記憶だった。
ルロイは何度か眼を瞬かせた。
目の前にいる少女、シェリーは、穏やかな微笑みを浮かべてルロイをずっと見つめている。勝手に付けられた名前にも関わらず、まるで、最初から、その名前しか知らないような微笑み方だった。
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