夏の日 カルキ 水の音

紀舟

夏の日 カルキ 水の音

 また、だ―――

 清子は眉をひそめ、鼻をこすった。

 照りつける太陽にコンクリートが焼ける匂いと、水しぶきが上がるたびに風に舞うカルキ臭。その間を縫うようにして、鼻につく、きつい香水のにおいが流れてきたのだ。

 若い人が身につけるような、優しい花の香りではない。もっと年のいった中年の、しかもまわりに無頓着になった、おばさんがつけるような、古い酸化した香水の酸っぱいにおいだ。

 辺りを見回してみるがもちろん、そんなにおいを振りまいている元凶は見つけられなかった。

 みんな水着姿、清子と同じに自分が泳ぐ順番を、熱くなったプールサイドで膝を抱えて座り、待っている。ある子は笛が鳴るたびに体に降り注ぐ水しぶきに笑いながら、ある子は自分の番がきて飛び込むときどこか水に打ちつけるんじゃないかと、顔をしかめながら……。少女たちばかりだ。

 どこにも香水を付けてそうな子はいない。先生だって、香水には縁遠い、定年間近のおじいちゃん先生だ。もっとも、誰か香水をしていても、すぐにプール独特の、あの強烈な塩素のにおいに洗い流されていただろう。


 やっぱり、あの時のにおいだ。


 清子は今朝の混雑した電車の中を思い出した。

 確か、清子の隣に立っていた、派手な色のスーツを着た太ったおばさんからこんなかんじのにおいがした。余りにきつい、においだったので、離れようと横に動いたとき、反対側にいたサラリーマンの靴を踏んでしまい、ひどく気まずい思いをしたのだった。

 今までそんなことは記憶の隅に追いやられて、忘れていたのに。鼻は覚えていたのだ、そのときのにおいを。


「どうかした?清子」

 清子が記憶力の良いおのれの鼻にうんざりしていると、隣に座っていた由里香が話しかけてきた。

「うん、鼻がね……」

「ああ、あのオモイダシコウ?」

「何、それ」

 オモイダシコウ

 聞きなれない由里香の言葉に、首を傾げる。

「思い出し笑いってあるじゃない。面白かったこと思い出して、つい、笑っちゃうこと」

「うん、ある」

「清子の場合、それが笑いじゃなくて、香りなのかなって思ったから、勝手に命名してみたんだけど」


 思イ出シ香、か。


 確かに、聞いていて人が想像するのは、そういったイメージなのかもしれない、が、

「うーん、なんか、違うんだよなあ」

「なんかって、何よ」

「こう、鼻自体が、独立した記憶回路を持っているっていうか……」

「何それ」

 清子は少し考え、由里香にも分かりやすいように話そうとした。

「強烈なにおい、例えば、化学の実験で使った薬品のにおいを嗅ぐじゃない?」

「うん」

「そうするとね、ずっと時間がたった後で、その強烈なにおいが、何処からか、におってきて、化学の実験のことを思い出すのよ」

「うーん」

「だからね、思い出し笑いは記憶が先で、笑いが後からくるでしょ?でも、私のは記憶の前ににおいが香ってくるのよ」

「ふーん」

 由里香は分かったような、分からないような、少し困った顔で清子から視線を逸らし、飛び込む生徒たちの背中を見つめた。

「私にはそんな経験ないから、分かんないや。清子が神経質すぎるだけなんじゃないの?」

「そうなのかな」

清子も由里香と同じように、水面を見つめる。

「あら、私には分かる気がするわ」

 後ろから声がした。

「白河さん」

 振り返ると、クラス一、美人だと言われている白河ゆきがクスクスと笑って座っていた。

 馬鹿みたいな話、聞かれちゃった。

 清子はきまりが悪くなり、赤くなってうつむいた。

 変な子って、思われたかな。

 美人には二通りのタイプがいる。異性にのみもてる美人と、同性にももてる美人だ。

 白河は後者だった。

 長くて艶やかな黒髪としなやかな手足。日本人形のような端正な顔だちは、笑うと清楚さが滲み出る。 それでいて、美人であることを鼻にかけていない。何人もの人に告白されていれば、自然と傲慢になりそうなものなのに。

「ごめんなさい、笑うつもりじゃなかったのに……」

 清子の顔に不安の色を見つけると、白河はそう、謝った。

「あの、私には分かるって……」

「ええ、私も清子さんと似たような回路を持っていてね。もっとも、匂いじゃないし、思い出すのも最近の記憶じゃないから、やっぱり清子さんにも、分かってもらえないかもいれないけど」

「ふーん?」

 首を傾げた清子に、白河が微笑する。

 着ているのは清子と同じ、野暮ったいスクール水着なのに、それだけでも白河は、漁師を魅了する、人魚のようだ。

「どんな記憶回路なの?」

「そうね」

 白河はしばし、遠くを見つめた。

「肌が水に触れるとね……」

「触れると?

「ううん、違うな。揺れる波紋や白い波しぶきを見ると」

「見ると?」

「飛び込むときの水の音を聞くたびに」

「聞くたびに?」

 そこで白河は言葉を切った。ため息に似た深呼吸をする。と――

「駄目だわ。耐えられない」

 勢いよく立ち上がった。そして――――、

「つまりね、こういうことよ」

 夏の日射しを背に、清子に三度目の微笑を残し、走り出した。

 並んでいた生徒たちをかいくぐり、プールへと向かっていく。

 先生の注意する声、クラスメイトの悲鳴。

 清子は見ていることしか出来なかった。

 白河の長い黒髪が散る。白くてなめらかな手足が、優美な曲線を描き、ふわりと空中に浮く。

 まるで、テレビのスロウモーションを見ているかのようだった。

 白河の体が、波に包まれて消えていく。

 周囲のざわめきの中、小さな魚が跳ねるような水の音が響いた。

 清子は白河の背中から目が離せなかった。

 走り出し、水中に消えるまで、彼女の長い髪と水着の間からは、きらきらとした何かが光っていた。

 強い光一つではなく、無数に。

 夏の太陽を反射しながら、きらきらと。


 白河が飛び込み、完全に消えた後、慌てて清子はプールサイドに駆け寄った。

 ちゃぷんと揺れる波の間に、白河の姿は、影すらもなかった。忽然と消えたのだ。

 代わりにあったのは――――、

 清子は息を呑んだ。

 一匹の鯉。

 あったのは、鱗を、太陽できらきらと金色に輝かせ、ゆったりと優雅に泳ぐ鯉の姿だった。

 その様はどこか清楚で美しい。


 ああ、そうか。

 清子はそこで悟った。

 白河さんが思い出した記憶って……。

 清子は空を仰いだ。

 青い空に、カルキ臭が香る。

 焼けたコンクリート、蒸し蒸しとした空気、夏の太陽……。

 今日のこのにおいも、鼻は記憶するだろう、思い出を伴なって。

 思い出すのはいつか分からない。今日の夜、寝る前かもしれない。明日の午後、授業中かもしれない。

 明後日、一週間後、一ヶ月後、一年後、十年後……。

 そうだ、もし、これがただの神経質ではなく、清子の能力だとしたら、生まれ変わった後、思い出したって不思議じゃないのではないだろうか。

 再び、プールに目を移す。

 金色の鯉は、何事もなかったかのように、パシャンと跳ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の日 カルキ 水の音 紀舟 @highrat01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ