それって通りすがるものなんですか?
「昨夜は、みなさん、お楽しみだったようで」
と翌朝、道雅が酒宴に誘われなかった愚痴を言いにやってきた。
「いやいや、女だけで、しっとり呑もうと思ってたんだけどね。
ちょうど真鍋が居たから」
と成子は弁解する。
へそを曲げられると厄介な相手だからだ。
一応、歌の師匠だし。
「今度は誘うわ。
確かに歌を詠むのにいい夜だったしね。
月はなかったけど、闇というのもまたいいものね」
とうっかり言って、
「そんなにいい夜だったのなら、もちろん、歌はお詠みになられたんですよね?」
と言われてしまう。
「いや……特に詠もうと思わなかったんで」
とまたまたうっかり言って、
「歌というのは、詠もう、と言って詠むのではなく、自然と湧き出してくるものですよ」
と叱られてしまった。
待て待て待て、と成子は思っていた。
湧き出してくるというわりには、道雅もずいぶん頭を抱えて悩みながら作っているようなのだが。
だが、そこで突っ込むことはしなかった。
長い長い創作理論を聞かされそうな予感がしたからだ。
そういえば、と成子は道雅の後ろにある御簾を見て言う。
「その御簾、昨日の夜、いきなり巻き上がったのよ。
それで夜警していた真鍋に来てもらったの」
ほう、これが、と振り返って見ながらも、道雅は今も巻き上がっている御簾を触って確かめるどころか、立ち上がりもしない。
「触るの怖いんでしょう。
だから、真鍋の方に来てもらって正解じゃない」
と言ってやると、道雅は立ち上がり、
「触りますよ。
触ればいいんでしょう?
触れたら、次の酒宴には呼んでくださいよ」
と言い出す。
いやいや、それに触れたら参加できるとか言うような通過儀礼的なあれではないのだが、と思いながら眺めていると、道雅は、そうっと御簾に手を伸ばしていた。
見るからに恐る恐るなので、もうやめていいわよと言おうとしたとき、黒猫がいきなり、道雅の足にすり寄った。
悪霊入りでないただの黒猫だ。
ひーっ、と道雅が悲鳴を上げる。
ちょうど御簾に触れようとした瞬間、脛になにか擦り付けられたので、ぞわぞわっと来たようだ。
逃げかけたが、その正体が黒猫と気づき、道雅は足を止めた。
「なんだ……、猫ではないですか。
お師匠様ではないのですね」
と抱き上げるが。
いや、悪霊が入ってなくとも、猫の霊が入っているときもあるし、なんだ、猫かと軽く片付けられるような猫ではないのだが。
「それにしても、何故、いきなり巻き上がったのでしょうね?」
と御簾を見上げて訊いてくるので、
「そうねえ。
ちょっと下ろしてみて」
と成子は乳母に命じた。
乳母とはいっても、成子の本物の乳母ではない。
内親王には三人くらいの乳母が居て、伊勢に下るときも勿論ついてくるのだが。
成子の乳母はひとりしかおらず、しかも、我が子が病にかかったりと大変そうだったので。
成子の祖母と命婦が乳母代わりということで、気の利いた女房を三人ほど選定したのだ。
肝の据わった女たちなので、その乳母もあっさり御簾に手を触れ、金具を外す。
触れなかった道雅は猫を抱いたまま、ちょっと情けなげな顔でその様子を眺めていた。
そのまま、みんなで見つめていたが、御簾は時折、強い風に揺れるくらいで、なにも変化はない。
「たまたまだったのかしらね」
と成子は呟いた。
「いや、たまたま御簾が巻き上がって金具が止まりますか?」
と道雅が疑問を呈したが。
誰も答えられないので、猫が道雅を見上げ、なあ、と鳴いただけだった。
だが、その夜、成子が早くに就寝していると、いきなり、パン、と音がした。
慌てて起き上がると、命婦も駆けつける。
見ると、またあの御簾が巻き上がっていた。
金具もしっかり止まっている。
「……どういうことなのでしょうね」
と命婦も首を傾げたが。
成子の側に居ると、妙なことが続くので。
まあ、そういうこともあるかと結論づけたらしく、あっさりすぐ側の寝所に帰って寝てしまった。
御簾が勝手に巻き上がるだけで、特に害もないので放っておいたのだが。
そんなことが続いたある日、命婦がすごい勢いで回廊を走り、やってきた。
「斎王様っ、わたくし、わかりましたわっ。
今回の怪異の原因がっ」
なんだ? と几帳の前に居た真鍋も振り返る。
命婦の手には真っ白なカメが居た。
「これですっ。
ようやく捕獲しましたのっ。
考えてみれば、この通りすがりのカメに餌をやり始めてからなのですよ。
あの御簾が巻き上がり出したのはっ。
きっとこれは、呪いのカメなんですわっ」
と命婦は成子たちの前にカメを突き出して言ってくる。
その真っ白なカメはじたじた手足を動かしている。
呪いのカメってなんだ……。
いや、それより、通りすがりのカメってなんだ……。
と思いながら、二人は、なんだかありがたい感じのする白いカメを見つめていた。
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