第四章 蠢くモノ

始まるともなく、それは始まっている

 

 その夜、薫物の良い香りを嗅ぎながら、成子は自室で都から届いた文を眺めていた。


 都で起こった出来事などをたまにこうして、友人たちがしたためて送ってくれるのだ。


 道雅様が都から離れてしまって寂しい。


 斎王は女の願う幸せからは遠ざかってしまう存在のように言われているけれど。


 あのような方をいつもお側に置けるなんて、貴女がうらやましいわ、と書いている友も居る。


 ……道雅か。


 まあ、見た目はいいからな。


 歌も上手いようだしな。


 私には、よくわからないけれど、と道雅に聞かれても、道雅の師匠に聞かれても嘆かれそうなことを成子は思う。


 そのとき、いきなり、なにもしていないのに御簾が巻き上がった。


 ひっ、と突然のことにさすがの成子も身をすくめる。


 すぐに真鍋が飛んできた。


「どうした、成子っ」


「い、いや、今、御簾が……」

と成子は御簾を指差す。


 巻き上がっている御簾を見て、

「命婦殿か誰かが巻き上げたのではないのか」

と真鍋は言うが。


「いやいや、今、勝手に巻き上がったのよ」

と成子は訴える。


 第一、命婦たちは今、席を外していて居ない。


 真鍋の他に夜警の者は居ないようだったので、成子は几帳の奥から出て、御簾を覗きに行った。


 巻き上げられた御簾は、ちゃんと留め具で止められている。


「どういう霊の仕業しわざかしら……?

 そういえば、この御簾、少し他とは違うわね」

と成子はその御簾を眺めた。


 色柄は他と同じだが、日の焼け具合が少し違う気がする。


 掛けられている位置の問題だろうか。


 普段、御簾をマジマジと眺めることなどないので、よくわからないが、と成子は思う。


 御簾が巻き上がったせいで、夜の庭がよく見通せた。


 月が雲に入ってしまったのか、息苦しい程の闇が広がっているのだが。


 屋敷の周辺だけは、屋根にかけられている釣り灯篭の灯りがぽつぽつと並び、その周囲を照らし出している。


 美しい光景だ。


「誰かがこれを私に見せてくれようとして、御簾を巻き上げたのかしら」


 闇が深いからこそ美しく見える、人の灯した灯りを見ながら成子が言うと、

「私だよ」

と足許にすり寄ってきた悪霊入りの黒猫が言い出す。


「私がお前に見せようと思ったのだ。

 この闇に包まれた美しい庭を」


 だが、真鍋は即座に、

「嘘をつけ。

 お前、成子が立ち上がっても、まだ几帳の向こうで寝てたろ」

と否定する。


 そのとき、命婦たちがしずしずと膳や提子ひさげを手にこちらに向かい、やってくるのが見えた。


 同じくそれを見ていた真鍋が言ってくる。


「今から、一杯やるつもりか、斎王様」


 ……いや、まったく敬語でないのに、斎王様とか言われても。


 そこは成子で、と思いながら、成子は、真鍋を見上げて訊いた。


「真鍋もどう?

 都の友だちが文に酒をつけて送ってくれたのよ」


「お前の友だちだろ?

 酒に文の間違いじゃないのか?」

と真鍋は余計なことを言ってくる。


 じゃあ呑まないのかと思ったら、呑むようだった。


 だったら、ごちゃごちゃ言わなきゃいいのに、と思いながら、結局、悪霊猫も少々酒を貰い、酒宴が始まる。


 命婦にうるさく言われるのは嫌なので、成子はおとなしく几帳の奥に引っ込んでいた。


 友人が送ってくれた酒は、氷室の氷とともに送られてきていた。


 甘くとろりとしたこの酒に氷を浮かべて呑むのだ。


 珍しい瑠璃の盃に氷を落とし、酒を入れる。


 それを釣り灯篭や高灯台の灯りにかざして呑むと本当に美しい。


 いい気分になってきた命婦が暗い夜空を見上げて呟く。


「ああ、いい夜ですわね。

 こんな風にみんなで月でも愛でながら、一杯いただくのは最高の気分ですわね」


 いや、月出てないんだけど、と成子も真鍋も、女房たちも、……たぶん、悪霊も思っていたが、誰も突っ込まなかった。


 突っ込むと面倒臭いことになるのはわかっていたし。


 いい夜なことには違いないからだ。


「道雅殿も呼んで差し上げればよかったですわね」

ともう酒もなくなろうかという頃、女房のひとりが言い出した。


 いや、今更か、と全員が一瞬沈黙したあと、笑ったが。


 その一瞬に、成子はカタカタッ……と巻き上げられている御簾が揺れる音を聞いた。


 真鍋がその視線を置い、御簾のところに行く。


 留め具を外してみようとするが、外れないようだった。


「どうしたのです?」

と命婦も側まで行く。


「いえ、この御簾が」

と真鍋が言いかけとき、留め具が外れ、するりとそれは下に落ちた。


 御簾で庭の一部が見えなくなったが、ちょうど月が覗いたところだったらしく、ぼんやりと月明かりが御簾の向こうに見えた。


「月も出て、戻るのに、ちょうどいい具合いですね。

 そろそろ寝ましょうか」

と命婦が片付けに立ち上がる。


 いやいや、酒がなくなって、ちょうどいい頃合いなんでしょう、と成子は苦笑いしていたが、言わなかった。


 そのあと、御簾は何事もなく、ただ中と外とを遮断して、そこにぶら下がっていた。


 悪霊猫は成子の夜具の上で、酔っ払って寝ている。


 なんだったのかな、と思いながらも、成子も眠りについた。






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