這い寄る霊

 

 



 命婦に頼んだことの知らせが届くまで、成子は居室で本を読んでいた。


 帝が送ってくれたものだ。


 座っている場所の下から猫の鳴き声がしたと思ったら、低い男の声が聞こえてきた。


「……今日は昨日の雨の名残りが日に輝いて、一段と美しいなあ、成子」


「そう思うのなら、たまには外に出てみたらどう?

 床下に籠ってないで」


 そう言いながら、本を捲ると、

「そんなことしたら、成仏してしまうではないか」

と床下の声は言い出す。


 いや、早くしろ。


 成子は本を閉じて言った。


「その猫も放してあげて。

 身体はもう真鍋に葬ってもらったのに、貴方がそうして、魂を掴んでいたら、上がれないじゃない」


 にゃーっとあの黒猫の声がする。


「まだこいつは上がりたくないようだよ。

 お前、飼ってやれ。ほれ」

と男は猫を放したようだった。


 霊体なのに、その黒猫はわざわざ床下から階を回って、やってきた。


 にゃーっと鳴きながら、近づいてくるその身体は艶やかで、瞳はくるんと愛らしい。


「まあ」

と成子は思わず手を伸ばす。


 霊体の猫が指先を舐めた。

 本物のそれに舐められているようにくすぐったい。


「ああ、あの男、来ないかなあ。

 成子、またあれを地下に潜らせてくれないか」

と霊は言い出す。


「真鍋のこと?

 どうして?」


「あの男、意志が強過ぎて、遠いと身体が乗っ取れないんだ。

 すぐ側まで来て、あの目の中にある僅かな隙を掴まなければ」


「そんな面倒臭いことして、真鍋に入らなくても。

 成仏して、生まれ変わって自分の身体を手に入れたらどう?」


「厭だね。

 そんなことしたら、今を忘れてしまう。


 お前とも離れてしまうしな」


「それはどうも、随分と気に入ってくださって」


「お前が此処に来てから、ずっとお前を眺めていたよ。

 美しい斎宮の姫」


 確かに此処に来た日から感じていた。

 床下から来る、猫の鳴き声と、突き上げるような視線。


「じゃ、真鍋じゃないものに入ったら?」


「いや、あれがいい。

 お前、あの顔と身体を気に入っているだろう」


「そうでもないけど。

 まあ、他よりはいいかな」


「お前のその聖なる気配を穢したら、我らはもっとこの地上に蔓延れる気がするのだ。


 お前のその……」


 床下からいきなり伸びてきた霊体の手が膝に触れたのを感じて、成子はぴしゃり、とそれを叩く。


 実際には、自分の膝を叩いただけだが、効果はあったようだ。


「少し貴方と話し過ぎたみたい」


 霊と言えども、話すとどうしても、心が通じ合ってしまう。

 向こうとこちらに架け橋のようなものが出来てしまうのだ。


「成子、私に心を開け。

 そうすれば、私がお前を守ってやるぞ」


 いや、まず、貴方から守ってくれる誰かが欲しいんだが、と思っていた。


「そのまま、そこに居たら、いつかあの霊に襲われるぞ」


「あの霊って、どれ?」


 居過ぎてよくわからないのだが。

 場所によっては、霊で視界が塞がれ、霞む。


 どうして、此処がこんなに不浄の霊と欲望で溢れているのか。

 まだ自分にはわからない。


「あの男の霊だよ。

 お前が言うところの、『這い寄る霊』だ。


 あれは、最早、此処に居る女が誰かもわかっていない。

 もともと『斎王』という称号に惹かれていただけなのかもしれないが」


「あの霊は斎王を狙っているの?」


「かつての斎王に懸想していたんだよ。

 しつこく言い寄っていた」


 その斎王って、と成子は側に置いておいたあの塗りの箱を開ける。


「もしかして、このかもじの――」


 そのとき、御簾の向こうに床に這いつくばる人影が見えた。


「お前は莫迦なのか」


「退治してくれる気は?」


 ないね、と素っ気なく霊が言ったので、成子は蓋を閉めた。

 霊の姿が薄くなり、消える。


 そして、聞こえた。


「……はい」

と言う声。


 成子は振り向き、その気配を追った。


「ねえ、人がいつまでもしつこく執着するのって、どんなときだと思う?」


「それが手に入らなくて、もどかしいときじゃないのか?」


「まったく手に入りそうになくても?」


 人に寄るな、と霊は言った。


「成る程。

 あら、道雅だわ」


 真鍋が来ても足音はしないが、道雅だとかなり間の抜けた音がする。


 そうか。

 だから、わからなかったのか、と思った。


「ねえ、あの身体にとり憑いてみない?」

と成子は御簾の向こうの影を指差す。


「あっちが好みか?

 それでお前が私のものになるのなら――


 いや、あれは駄目だな」

と霊は言った。


 そのとき、道雅が現れた。


「さあ、斎王様。

 お勉強のお時間ですよ」


 生真面目な道雅の顔を見、もうちょっと愉快なことか、色気のあることは言えないのだろうかな、と成子は溜息をついた。


「本を読んでらしたのですか?」


「帝が送ってきてくれたから。

 まるで、離れた孫に送ってくるように物を贈ってくるわよ」


「それが帝の唯一の楽しみで慰めなのですよ。

 貴女様が後宮に上がられず、こんなところに来てしまった今となっては」


「そんなことしてる場合かしらね。

 あんな中継ぎの天皇。


 あっという間に、何か罪を着せられて、追い払われるわよ。

 気をつけておかないと」


「容赦ないですね、斎王様は」


 そのとき、命婦が駆け込んできた。

 命婦は道雅の顔を見て、ぎくりとする。


 道雅が、おや、と思うより早く、命婦は几帳の側を通り、成子の許まで来た。


「斎王様。

 仰る通りでした。


 あちらの社殿にありました衣が、一枚、なくなっているそうです。

 下働きのものが空を飛ぶ白い布を見たと言っているそうなのですが」


「わかったわ、ありがとう」


 命婦は、ちらちらと熱い視線を道雅に向けながら、去って行った。


 いつも彼女に邪険に扱われている道雅は、なんなんだ、という顔をしている。


「命婦殿はどうかされたのですか?」


 命婦の丸っこい影が消えたあとで、道雅はそう訊いてきた。


「あれはちょっと放っておいてあげて」


 さて、と成子は言う。


「退治できるのは、どの霊かしら?」






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