かもじ
午後、命婦たちは増え続けるお道具の整理をしていた。
何をするでもなく、成子はぼんやりそれを見ていた。
「これは?
前の斎宮様の?」
「おかしいですね。
そんなお道具、残っているはずもないのですが」
そんな声に、奥から引き出して来たお道具に囲まれている乳母たちを見る。
いらないと言っているのに、贈ってくる
『都のかたに おもむきたもうな』
蒔絵の櫛箱を開けた白い手が成子の上げられた前髪に黄楊の櫛を挿す。
お櫛の儀と言われる、斎王となる前の、天皇との別れの儀式だ。
久しぶりに間近に彼の顔を見た、と思っていた。
静かな室内に箱を開け閉めする音だけが響いていた。
天皇の手が自分の髪から離れる。
一瞬、視線が合った。
だが、成子はすぐに立ち上がり、大極殿を後にする。
このとき、斎王は決して、振り返ってはならない。
これが今生の別れかもしれないのに。
そんなことを思い起こしながら、成子は乳母たちに手を差し出す。
「貸してご覧なさい」
塗りの櫛箱が開かないようなのだ。
これは確かに自分の持ち物ではないようだ、と思いながら、力の加減を変えながら、少し揺らすようにして開けてみる。
中が見えた瞬間、思わず、取り落としそうになった。
黒髪の束が入っていたからだ。
かもじ?
だが、なにやら、おどろおどろしい感じがする。
その瞬間、ずるずると這う音が聞こえ始めた。
楽しげに話している女たちのその後ろ。
何かが御簾の向こうを這っている。
徐々にこちらに近づいてきていた。
狩衣を着た男のようだが、顔は見えない。
誰も気づくものがないのが不気味だ。
苦笑いしながら見ている成子に気づいたように、命婦が視線を追っていたが。
もちろん、彼女にも、すぐそこに来ているそれが見えているわけではない。
あ……ああああ……
何か訴えながら、その霊は近づいてくる。
手を伸ばし、望むものを求めるように。
女房たちの身体をすり抜けながら、一直線にこちらに這ってくる。
膝に手が触れそうな位置まで来たとき、霊が、ぐぐっと手を伸ばした。
鼻先にそのごつい男の手が来たが、誰にも見えてはいないので、もちろん、助けてはもらえなかった。
男の手は、その位置のまま止まっている。
「どうかされましたか? 斎王様」
命婦に問われ、匂いが嗅げそうなほど近くにあるその指先を見ながら笑ってみせた。
「なんでもないわ」
後から来た道雅に、成子が這い寄る怨霊の話をすると、
「そんなことがあったんですか。
呼んでくださればよろしかったのに」
と言い出す。
いやいや、あんた、何が出来るんだ、と思っていた。
「ひとつ、詠んでみましょうか。
『這い寄る怨霊』で」
成子は脇息に寄りかかり、怠惰にそう言ってみたが、結構です、と言われてしまった。
「面白い歌が出来そうなのに」
「それ、聞いてる方は面白くありません。
それにしても、ずっとこんな調子じゃ、歌の勉強にも身が入らないですよね」
いや、それ以前に、神に祈りを捧げるべき場所が、この状態、というのが問題だろう。
「何かこう、怨霊を退治する方法とかないんですか?」
「そうねえ。
人間の悪党なら、真鍋に斬ってもらえばいいんだけど。
実体がないし、怨霊は悪党ってわけでもないからね」
「そうなんですか?」
「そうか、怨霊か」
と成子は笑う。
「怨霊に抵抗するには、こちらからも怨霊を差し向けたらいいんじゃない?」
ちょっと待ってくださいよ、と道雅は眉をひそめる。
「何処から、その怨霊を連れて来る気ですか」
「新しく作ればいいのよ」
「は?」
「ちなみに、怨霊になるのは、貴方が適任よ」
「は?」
「さっき言ったじゃないの。
怨霊ってのは、必ずしも悪党がなるものじゃないのよ。
良い人が人に裏切られ、陥れられて、恨んで恨んでなった怨霊こそが最強なのよ。
それだけ恨みの念が深いからでしょうね。
悪党だったら、やられても、心の何処かで、ああ、やっぱりね、って自分でも思うところがあるからじゃない?」
「そんなもんですかね」
悪党がそんなに聞き分けがいいか? と思ったようだった。
だが、大変な悪党でも、根っこまでそうかと言うと、そうでもないことも多い。
すべてが悪に染まっているように見えて、そうでなく。
冷静な判断力もあるのに、堕ちて行っている人間も多い。
そんな悪党は、斬り殺されても、恐らく、やっぱりね、と思っているのだろう。
なんだか申し訳なさそうに辻に突っ立っている悪党面の霊を見ることがある。
「だから、貴方が適任なのよ」
と成子は言った。
「更に人徳を磨いていい人になりなさいよ。
そうしたら、裏切って殺すから。
最強の怨霊ってのは、そうやって作るのよ」
「……作ったことあるんですか」
と恨みがましくこちらを見て言う。
本当にやりそうだ、とでも思っているのかもしれない。
「雨、止みそうにないわねえ」
脇息に肘をつき、ぼんやりと外を見た。
霧雨にけぶるような庭先に、弓を携えた真鍋の姿が見えた。
熱心なことだ。
もうちょっと下位の者にでも普通は任せるところだろうに。
そうして、警備してくれても、怨霊からは守ってくれないのが、玉に瑕だが。
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