神――
静かだ。
寝てるんじゃないだろうな、この女。
幕に覆われた寝所の中で、斎王は身じろぎひとつしない。
そのとき、几帳の向こうで、ふわりと御簾が風に揺れた。
先程まで、風は収まっていたのに、随分大きく動いたな、と真鍋は思った。
ぱさり、と舞い上がり落ちた御簾の裾が何かに当たるような音がした。
几帳のこちらからは、このように見えていたのか、といつも女人が見ている風景を物珍しく思ったとき、真鍋は気づいた。
誰か居る――。
御簾の向こう、男の影が見えた。
東側から歩いて来たその男は、しばらく西を見ていた。
あれはなんだ?
もう一度、御簾が揺れたとき、その足許が見えた。
人間……?
霊ではない。
生きた人間か?
ぱさり、とまた御簾が持ち上がり、落ちたとき、その影はこちらを向いていた。
身構えるように、思わず、腕に力が籠めた瞬間、斎王が寝所の中から囁く。
「……動かないで」
もう少し待って、と斎王は言った。
やがて、ゆっくりとその人影は立ち去って行く。
最初に来た方角に。
斎王が寝所から這い出してきた。
周囲を窺ったあとで、立ち上がり、御簾の外に出る。
またこの女、簡単に外に出て、と思いながら追いかけると、彼女は御簾の外で屈んで何かを拾っていた。
「……それは」
「鱗よ」
彼女の細い手のひらにそれは載っていた。
月に見事に輝く白銀の鱗だ。
「斎王となった女の許には、蛇の化身である神なる男が通ってくるのよ。
朝、男は姿を消しているけれど、寝床には鱗が残っているらしいわ。
三輪の神と一緒ね」
「今のは生きている男のように見えましたが」
「奇遇ね。
私にもそう見えるわ。
でも、何故かあそこからは入ってこないし、出てみても、見えないの。
いつの間にか、居なくなっているのよ」
「まさかとは思うが、追ってみたんですか?」
そうよ、と言う斎王に、危ない真似をする……と呟くと、
「大丈夫よ。
此処は神の宮なんでしょ」
と言い出した。
「しかし、此処は天照大神を祀る地。
天照大神は女性のはずではないですか」
「わからないけど。
斎王は神の花嫁と言われるくらいだから、何かあるんでしょうね。
この伊勢には、土着の神もたくさん居るはずだから」
斎王の手からそれを取り上げ、月に翳す。
まるで身を飾るもののように美しく、それは光った。
「あの獅子も狛犬も、何も守ってくれそうにはないけど」
斎王の寝所である御帳台は左右を天皇のそれと同じく、獅子と狛犬が守っている。
右に獅子、左に狛犬。
魑魅魍魎を避けるため、と言われているが、実際には、帳(とばり)と呼ばれる御帳台を覆う幕のようなものを押さえるのに使われている。
斎王は天皇の代理なので、彼女の身の回りのもの、すべてに置いて、仰々しい。
この伊勢に訪れる際の、群行と呼ばれる行列でも、
それなのに、本人はこれだからな、と真鍋は静かに籠っていられない斎王を見て思った。
「単に斎王様に
警備を強化しましょう、と言うと、
「そうだとするなら、そこから入ってこない理由も気になるのよね」
と御簾を指差し、言い出す。
入ってきて欲しいのか、と思った。
「そもそも、今までも斎王様が男を通わせることの言い訳にしてたんじゃないんですか。
神が鱗を落としていくというのは」
幼いうちに此処へ来て去る斎王ならいい。
だが、大抵の場合、この都から離れた土地で、人生の華とも言える時期を無為に過ごすことになる。
男の一人や二人、通わせる斎王も居たのではないかと思っていた。
「ともかく、いつか入ってきそうで怖いのよ」
「しかし、斎王様。
あれが此処の神だとするなら、斎王である貴女様は、その神を受け入れなければならないんじゃないですか?」
「……本当に無神経ね、貴方は」
もう帰っていいわよ、と言う。
あまり斎王らしくない斎王は、それじゃあ、と冷たくこちらを見て、几帳の奥へと引っ込んでしまった。
そうして、御簾の外には、誰も居なくなる。
やれやれ、と思いながら、今、あの男の影が来て、去った方を見た。
何処かで虫の声が聞こえた。
井戸のところに誰か居る。
女官のようだ。
黙って、冷たく暗いそこを覗き込んでいる。
だが、話しかけることはしなかった。
その女官は生きてはいなかったからだ。
斎王でなくとも、疑問に思ってはいる。
何故、この神の宮に、これだけの霊が居るのかと――。
斎王の選定は
甲羅を焼いて、その亀裂の形で占うのだ。
だから、成子が選ばれたのも、占いによるものだったのだが。
一部では、最初からそのように仕組まれていたのではないかと囁かれていた。
今上帝が彼女に想いを寄せているから。
成子に後宮に上がられると厄介だと思った連中が、彼女をこの遠い伊勢の地に追い払ったのではないかという噂だった。
彼女が帝をどう思っていたのか知らないが、今の彼女はそんな権力闘争など関係ないかのように、いつも飄々としている。
都での彼女もきっとそうだったのだろう。
そんなことを考えていて、気づく。
彼女の許を離れても、なお、彼女の気配が自分の近くにあるように感じていることに。
袖に鼻先を当ててみる。
彼女の薫きしめた香の香りが、まだそこに残っていた。
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