怨霊
『……誰だ』
とその男は自分に呼びかけてきた。
生者の声だ。
張りのあるいい声だ。
誰をもその主張で黙らせてしまうような。
鼻筋の通ったいい顔をしている。
自分がこんな顔でこんな体躯をしていたらな、と思う。
隙のない気配。
だが、今の自分なら、負けはしないと思っていた。
床下にしゃがみ、その男を見つめる。
男は目を逸らさない。
触れられなくとも、押さえつけられそうな目線だが、相手は生きている人間だ。
何処かに心の隙があるに違いない。
そう思った――。
強い風に御簾がはためく。
お気に入りの香を焚きながら、琴を弾いていた成子は、風に転がされた女童の鞠を追って、命婦が出て行くのを見た。
風で時折持ち上がる御簾の下から、何処までも転がる鞠を追い、命婦もまた転がりそうになりながら、庭を走るのが見えた。
思わず笑ったとき、一度、落ちて持ち上がった御簾に大きな影が映った。
男の影だ。
それは、真鍋のはずだった。
御簾がもう一度持ち上がった瞬間、その大きな身体を屈めるでもなく、するりと真鍋は入り込んでくる。
成子は手を止めたまま笑った。
大股に側まできた真鍋は、そのまま人形のように突っ立っている。
「貴方なら、大丈夫だと思ったのに」
成子は相手が動かないよう、その目を捉えたまま、片手で香炉の蓋を跳ね上げ、まだ熱を残す灰を指先につける。
立ち上がった成子は、人差し指で、真鍋の鼻先を突いた。
急に強い香りがしたせいか、真鍋は一瞬、目を閉じた。
「出て行って。
誰?」
出て行けと言ったのは、真鍋にではない。
彼の中に居るものだ。
「貴方、床下の霊?」
「……そうだ。
美しき斎王よ」
お前は歴代の斎王の中でも、格別に美しい、と言う。
「きっと魂が人と違うのだな」
真鍋の痺れるようないい声で言われると、別人とわかっていても、どきりとしてしまう。
「貴方は長く此処に居るの?
訊きたいことがあるのよ。
何故、この地はこんなに乱れているの?」
「呪詛を行った者が居るからだよ」
「呪詛?
この斎宮で?」
「人の欲望はどんな場所だろうと際限がない」
真鍋の手で肩に触れ、そのまま唇を合わせてこようとする霊に、
「貴方はどうなの?」
と問うと、
「私も人だ――」
と言う。
「申し訳ありません。
遠くまで飛ばされてしまって。
あら」
汗を拭い、戻ってきた命婦は、成子の側に居た真鍋に目をしばたたいた。
その手に鞠はないから、もう女童に返してきたのだろう。
成子が微笑み、
「取れたの?
よかったわね。
今、几帳が倒れてしまってね。
真鍋が起こしてくれたわ」
と言うと、まあ、そうですか、と命婦は改まった調子で言う。
これが道雅だったら、勝手に入るなと叱り飛ばされるところだ。
何が違うのだろうかな、と思う。
道雅は堅物だが、奇麗な顔立ちをしている。
そんなに容姿で劣っているとも思えないのだが。
男らしさかな。
命婦の道雅と真鍋に対する扱いは、まるで違っていた。
道雅に対しては、子どもに向かって話しているかのようだ。
童顔だが、道雅の方が真鍋より年上のはずなのだが。
真鍋が小声で呟いていた。
「……何故、私は此処に」
「私もびっくりしているところよ。
貴方がこんな簡単に乗っ取られるなんて」
何があったのかと訊きたいところだったが、真鍋はこの場に長居は出来ない。
立ち上がり、命婦に頭を下げようとする彼に、成子は囁く。
「あとで来て。
みなが寝静まってから」
真鍋はちらと振り返ったが、そのまま出て行った。
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