叙事詩 第二幕 ヨーゼフの思惑(後編)

 ヨーゼフが帰って来たのは、その日の夜。


 静まり返った闇の中から、狼の遠吠えが聞こえていた。


 月明かりを背に、三頭の馬が静かに近付くのがアリステラには分かる。安楽椅子でうつらうつらとしていたのに、ヨーゼフの気配を感じると頭はすっきりと覚めた。


 感じ取れる具合からヨーゼフは無事のようだ。彼女は銀の小鍋から木製のカップに湯を注ぎ、薬草を静かに沈めた。


 テントの出入り口を見つめ、彼の姿を待つ。


 この僅かな時間。胸が締め付けられる。

 たった一日離れただけなのに鼓動はすごく高鳴っていた。


 彼が姿を現した瞬間に声をかける。


「おかえり」


「ただいまアリス。やはり起きていたか」

 驚く素振りもなく答えるヨーゼフ。


「えぇ。温かい薬湯やくとうは如何? 今夜は少し冷えるでしょう?」


 アリステラはカップを差し出す。彼は両手に提げていた麻袋をテントの隅に置き、薬湯を受け取った。彼女の隣、つまり自分の椅子に腰掛け、カップに口を付ける。木と薬草の香りがほんのりとした。


「この土地にいると季節が分からなくなる。森を抜けたら暑い季節だったよ」

「ここの精霊達はとても活発的。だからかしら?」


「うむ。異常気象なのは相違ない。だが、外の人間社会も正常とは言い難い」

「まだ……争い続けているのね」


 ヨーゼフは天井を一度見つめてから口を開いた。


「数日はかかるであろう険しい山道も、森の獣道も驚くような速さだった。あれはアリスが何かしてくれたのだろう?」


 暗い顔のアリステラを気遣い、話題を変える。


「近くにいる精霊達にも協力をお願いしたの」


「森では木々が避けるように、山では風の如く」

 腕を大袈裟に振り、驚きを表現して見せる。


 彼女に笑顔が戻ると、ヨーゼフは自分が書いた文書の束を手にした。


「ちゃんと全部読んだわ。偉いでしょ」

「ありがたい。明日、早速行動に移そう」


 手紙の内容を思い出すアリステラ。






 ――これからのすべき事は二つある。


 一つは、この突発的な大雨の原因であるハィドォゥジェンをなだめる事。


 二つ目は、この森の主に我々が住まう許しを得る事。



 一つ目はアリスにしか出来ない事であるが、もちろん私も同行しよう。ハィドォゥジェンは私達の味方のはずだ。きっとアリスの話に耳を傾けてくれるに違いない。この異常気象をなんとかしなければ、ここに人が住まう街は作れまい。


 そして、森の主。


 アリスも狼の遠吠えをよく聞くだろう。あれがこの土地の主だ。私は一度だけ会ったことがある。


 とても大きな狼だが、気品ある高貴な女性であった。事情を詳しく話せば街を作ることを許してもらえると思う。彼女の名前はベナンジュリューニスハー・ミカエリュニスト。大昔から森の平和を守ってきた狼の一族だと言っていた。私はこの森で生活することを許された。だが、これから街を作るにあたって、外の者が多く入ってくるのは避けられない。


 安心してほしい。森の主、ベナンジュリューニスハー・ミカエリュニストを説得できる材料はある。





「説得できる材料ね……」


 小さく声に出た台詞をヨーゼフは聞き逃さなかった。


「ベナンジュリューニスハー・ミカエリュニストは誠に高貴な狼だ。私達の誠実な気持ちがあれば大丈夫だ。交渉の材料とは言ったものの、異常気象はここに住まう生き物にとって迷惑なことだろう」


「それだったら、ハィドォゥジェンとの話し合いの前に……ベナンじゅり……」

「ベナンジュリューニスハー・ミカエリュニスト」


「そう、その狼! もう! 覚えにくい名前!」

「アリスの言いたいことは分かる」


 ヨーゼフは腕組みをし天井を見上げた。


「だが、まず異常気象を止める。これを交渉材料にしては誠意が伝わらない。会いに行くのはその後だ。それに、私はこの土地に新しい街を作ること。この森に人が入ること、その判断をベナンジュリューニスハー・ミカエリュニストにして欲しいのだよ」


 アリステラは微笑みながら、ヨーゼフの組んだ腕に手を添えた。


「呆れるぐらい、真っ直ぐな人ね」


「思考能力は高いのだ。だが、融通が利かない。気持ちを単純に表すことしか出来ないのさ」


「ふふ、あなたらしいわね」





――叙事詩 第二幕 ヨーゼフの思惑 完

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