叙事詩 第一幕 宿敵 <前編>
この大地には、まだ名前が付いていなかった。
ほぼ山岳に囲まれた大地の気候は、常に不安定だ。
人が住む事は非常に困難であった。
その土地にある
気まぐれに雷雨が訪れ、地形を
河川は隙あらば氾濫。山岳には活火山が点在し大地を揺らす。
そんな不安定な環境にも関わらず、アリステラとヨーゼフは平穏に過ごしていた。
穏やかな深緑の中、アリステラは大きなお腹を抱えて安楽椅子に揺られていた。服装はゆたっりとした黒色のワンピース。細い手足に小柄な
腰まであろう長い黒髪は、頭の高い部分で一本に括られている。アリステラは瞳を閉じ、鼻歌を奏でこの陽気を楽しんでいた。
空は高く、風は緩やかに吹き、鳥や虫は自由に空間を楽しんでいる。
ここは、まだ名も無い土地。
旅人に解かり易く言うのであれば、コスターニャ王国とベルガモフ帝国の間にある深く険しい広大な森林と山岳が混ざり合う地域。不安定な天候による自然災害や、その地形の険しさのせいで、訪れようとは思わないだろう。
では何故、アリステラがこんな場所で揚々と過ごしているのか。小鳥の
この辺りに存在する精霊や草木の声が聞こえてしまう。どこが危険で、どこが安全な場所かは彼等が教えてくれる。
また精霊達がアリステラに囁いた。
誰か来るようだ。それはヨーゼフに決まっている。土の精霊が教えてくれた歩幅はいつもの彼の歩幅。その足取りから荷物は何だろうか。……今、水が
今までのアリステラにはなかった感情。
他人に興味を持った事など一切なかった彼女。その感情は新鮮だったし、心から嬉しかった。彼の人間離れした知性と価値観。性格とでも言えばいいのだろうか。どんな事象や現象に対しても真っ直ぐで素直な意見は、アリステラが出会った誰よりも平等であった。
魔女とは、人間とは次元の違う生き物。
実際そうだし、自然と住み分けはされるのだろう。
そう思っていた。
茂みを掻き分けヨーゼフが姿を現す。両手に金属製のバケツを
「ヨーゼフ。おかえり」
安楽椅子に揺られながら、流し目で見る。その声色はとても透き通っているようにヨーゼフは聞こえた。
「ただいま。夕飯は川魚のムニエルにしようか」
目を細め表情を和らげる。この顔を目撃した者は少ないであろう。彼は意識してそうしているわけでは無い。そんな些細な事もアリステラには分かってしまう。
そんな暮らしを始め、数ヶ月が経った。
大自然に囲まれた二人だけの世界。
その穏やかな生活は長くは続かなかった。
雨雲が青空を侵食し、日中なのに夜のような様相だ。今にも雨粒が降り注ごうと、雷雲が低く
突然の天候変化はよくある事だ。二人はまったく気にする素振りも見せずに、普段通りの会話をしていた。
迫る雨雲の正反対を彼女が見つめ口をつぐむ。それに釣られヨーゼフも視線を移した。
「……何か来る」
まるで独り言のように彼女が発した言葉。
それに呼応して、ヨーゼフは杖を前にかざした。先端に付いている拳ほどの水晶球が赤黒く薄っすらと色付く。水晶の中を漂う魔術文字が、いつもより速く泳いでいた。
この現象は初めてアリステラと出会った時と同じだ。
周囲の精霊達が活発になっている。そう確信するヨーゼフの表情に対し、アリステラは不思議そうな眼差しだ。
精霊の声を自然と聞く事ができる魔女に比べ、魔道士は専用の道具「
つまり、それほどまで精霊が騒いでいるのだ。
警戒するヨーゼフ。
背後には雷雲が迫っている。
異変は視覚ではなく聴覚であった。
『こんな場所に人間がいるとは驚きだ』
周囲の空間から聞こえた言葉に感情はなく、男とも女とも判別の出来ない音であった。
「私達が人間に見えるようだな」
そう答えたのはヨーゼフ。杖を構えアリステラと同じ方向を凝視し続けた。
『お前はな……。もう一人は……』
その言葉が届いてから数秒後。二人の視界に声の主が現れる。
暗い森の茂み。そこから出てきたのは、深紅のローブを身に纏った赤髪の生き物。深く濁った紅玉の瞳で、二人を見据えてゆっくりと歩み寄る。
歩くたびに揺れる長髪は腰下まであり、中性的な顔立ちは無表情で、凜とした堂々たる歩き方は、外見と年齢が釣り合っていない印象を与える。人形のような作られた美しさがそこにはあった。
人の形はしているが、そうでない事はすぐに分かった。
『なるほど。お前はアリステラという名の魔女か』
どこから発しているのか、口元は微動だにせず赤髪は言う。
「あなたの名前は……ロッソ……」
アリステラは不思議そうな表情で返した。
<後編へ続く>
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