ジョゼの店 第七章 楽譜と陰謀(中編)
ヴァグダッシュの酒場に着いたのは、太陽が山に引き寄せられる頃であった。だが日差しはしっかりと照らし、空の色もまだ変わってはいなかった。
その酒場は大通りから細い路地に入り、更に何回か路地を縫うように進む。そうすると小さな酒場や屋台の
小さな木造りのボロ小屋。そこがヴァグダッシュの酒場だ。
まだ開店していない事を知らせる看板が扉に掛かっていたが、ジョゼはそれを無視し古木戸をゆっくり開けた。
普段は店内の照明は暗めにしている。だが今、目にしている光景は非常に明るく感じた。天井付近に設置されている窓も全て開放されており、日差しが店内を隅々まで照らしている。カウンターや机の上には椅子が逆さまに置いてあった。
丁寧にモップで床を磨く狐面の小柄な男がジョゼ達に気付き声を掛ける。この男がこの店の亭主ヴァグダッシュ。
「やぁ、ジョゼのダンナ~。それにセロお嬢さんまで。どうしたんですかい?」
「情報を貰いにきた」
ヴァグダッシュはモップの柄に顎をのせ笑顔で返した。
「うちは飲み屋で情報屋じゃございやせん」
「結構。ならば噂話を聞かせてくれれば、今夜の酒盛りはここで豪勢にやらせてもらおうか」
「豪勢にですかい? それは当店のフルコースを出しても良いんですよね?」
「当然だ。最低でも三人前は注文するだろう」
ジョゼは指を三本立て言い放った。それを見た亭主は満足そうに、セロは家計簿を開き青ざめる。
「セロ。問題はない。すべて順調に進んでいる」
ヴァグダッシュとの会話が始まる。
まずジョゼが楽譜を見せる。首を傾ける亭主に質問を始めた。
「これが今、噂になっている呪いの楽譜だ」
「へぇ~、これが作曲家のフォーレルの旦那をやった楽譜ですかい」
怯えもせずに、まじまじと楽譜を見つめる。
「更に彼の妻とメイドも巻き込んだ忌まわしき楽譜だ」
「へいへい。噂には聞いてますぜい。奥さんは演奏家でこれを弾いちまったんだよね。メイドはこれを売っぱらったとか」
視線を天井に向け語るヴァグダッシュ。
「うむ。さすが情報通で話が早い。この店には色んな人種の者が来るだろう。その中に耳が異常に尖った連中は来なかったか?」
「耳の尖ったか……ワリステンのお姉さんか?」
「馬鹿者。あの方は純粋なハイエルフだぞ。もっと他の奴だ」
ヴァグダッシュは腕を組み唸る。その間にセロが口を挟んだ。
「ワリステンのお姉さんってハイエルフだったんですか?」
「そうだ。知らなかったのか。まぁ、無理もない。いつも厚手のフードを被っているし、会話も好まない方だからな」
セロはワリステンの事をもっと聞きたがったが、ヴァグダッシュの一言で話題は戻ってしまう。
「ビルゴーのおっさん。なんてどうですかい?」
閃いたと言わんばかりに手を打つ亭主。
「初めて聞く名前だな。何者だ?」
「へい。一ヶ月前に移住した奴で、たしか故郷は」
「ベルガモフ帝国」
ヴァグダッシュが故郷の名前を言う前にジョゼが答えた。亭主は軽く驚いた様子をみせたが、すぐに普段どおりの狐面に戻る。
「では、そのビルゴーという男はどこに行けば会える?」
「そこまでは、ちょいとわかりやせん」
「そうか。では今夜、また伺おう。フルコースを三人前用意しておくように」
そう言うとヴァグダッシュの返事も待たず店を出た。
後を追って来たセロは生き生きと言う。
「次は商店街ですね!」
「最近お世話になったばかりでアレだが致し方あるまい。行き先は
『和洋・古今東西。雑貨あるある店』―――通称『
女亭主が独りで切り盛りしているジョゼのお気に入りの店だ。先日、女亭主アンナ・ヴァーミリオンはジョゼに片想いしている事を当の本人に見破られ、それが蛇の髪飾りのせいであるとか無いとか、という事は置いておいて、大変恥ずかしい目にあってしまったのである。
「はぁ……」
深い溜息と虚ろな目を泳がせているアンナ。あの大雨の日以来、彼女の溜息は止まらなかった。店内に誰もいないのを良い事に独り言をぶつぶつと洩らす。
「きっと彼は何食わぬ顔で、いつものように来店されるのでしょうね。私はそれをいつも通りに対応する。あの日の事は無かったかのように……時は過ぎて行くのでしょうね。嗚呼、でも私は……」
手に持っていた在庫管理用のバインダーを見つめながら彼女は思考を重ねていた。答えはいつも同じ。それでも、何かあるのではと自問自答を繰り返す。そんな日々を打ち壊すかの如く玄関の扉が開いた。
ジョゼが現れた。
ついでにセロの頭が彼の背中から覗く。
息を飲むアンナは来店の挨拶をする余裕がなかった。そして、呼吸を整える猶予もなくジョゼが口を開いた。
「アンナ・ヴァーミリオン!」
「は、はいッ!」
悲鳴にも近い引きつった声を上げてしまう。真っ直ぐ彼女の瞳を見ながら、最短距離で詰め寄るジョゼ。無駄の無い行動。それに鼓動が高鳴る。
目の前まで来た彼は素早く楽譜を開いてみせた。
「これを見て欲しい。いや、楽譜の譜面ではない。私が見て欲しいのは紙の質についてだ。もし私の見解が正しければ、この材質はベルガモフ帝国でよく使用させる厚紙のはず!」
圧倒的に早口で捲くし立てるジョゼを前に、アンナの思考回路はショート寸前である。考えてもみたまえ。愛しの殿方に想いを寄せていた事が本人にバレ、更にその張本人が輝いた瞳で見つめてくる。普段は見せない爛々とした視線は彼女の心を打つには十分なのだ。
この事態を収拾したのはセロだった。ジョゼの服をひっぱり制止させ、赤面した女亭主に声を掛ける。
「こんにちは。アンナさん。ジョゼ様が失礼致しました」
セロは目を瞑り、両手を前にお辞儀した。
「あ、えっと。こちらこそ、すいません……。え~っと、この紙の材質ですよね」
あたふたとした身振りの後、正面に出された譜面を手にする。勿論、ジョゼの顔など見る事はしない。まだ少々赤らむ顔を隠すように、まじまじと瞳を紙に近づけた。
「たしかに、この繊維の組み方はベルガモフ帝国製のような……」
指でゆっくりと撫でる。そして胸ポケットに忍ばせていたルーペを取り出した。しばらく、覗いてから戸棚の引き出しから無地の紙を出して見比べた。
「間違いなくベルガモフ帝国製ですね。でもジョゼさん。この紙は一般には使われる物ではありませんよ?」
ようやく彼女はジョゼを見て話した。
「ふむ。この紙は高級品。しかも契約や正式書類にしか使われない」
「はい。その通りです」
彼女は簡潔に答えた。ジョゼは顎を手で押さえ考え込む。それまで静観していたセロが声を掛ける。
「最近、その紙は売れましたか?」
「いいえ。お店に置いてから約一年の間、一枚も売れてません。特殊な紙でなかなか市場には出回ってないし、売れ筋になるかもと思ったのですが……」
セロは「目の付け所がマイナー過ぎる!」と思ったが口には出さなかった。
「よろしい。では、その特殊な紙。在庫すべて言い値で買おう」
その台詞を聞いたセロは主の顔を素早く見る。
(ふぇッ?! ジョゼ様?! 今なんて言いました? 言い値で買うの? ナンデ? それ言いたいだけでしょ? 在庫がどのくらいあるとか聞かないの?)
セロの顔にそう書いてあった。
彼女の表情が見えない角度にいたアンナは、何事もなく戸棚に向かう。持って来た枚数は三十枚であった。
「言い値で宜しいんですね。……じゃぁ、在庫処分も兼ねてますので特価で割引させてもらいますね」
アンナは肩を
「よかったですね。在庫が何百枚もなくて」
「アンナ・ヴァーミリオンは非常に慎重な性格だ。彼女の買出しを見掛けた事は何度もあるが大量に購入した姿は見た事はない。それに一枚も売れていないと言うではないか。法外な金額を要求される事はありますまい」
「そ、そうですか……。あとジョゼ様は最初から楽譜の紙はベルガモフ帝国製だと解かっていたようですけど」
ジョゼは無地の紙の角を小さく千切り手渡した。
「ちょっと舐めると良い」
言われた通り口元へ持っていく。
「……甘い?」
「左様。若干の光沢を出す為に蜂蜜が僅かに使われているのが特徴だ。覚えておくと良い」
辺りは薄暗くなりつつあった。
夕闇がゆっくりとフォートレストを包む。
もう一度酒場に向かう旨をセロに伝え、狭い路地に入っていくのであった。
二人の後を追う人影に気付く様子もなく。
<後編へ続く>
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