ジョゼの店 第七章 楽譜と陰謀(前編)
それは昼下がり。
昼食を済ませた時間帯、乾燥した空気が街を包んでいた。暖かい陽気と北からの冷たい風がゆっくりと肌を撫でる。フォートレストはいつも通りの活気に色付いていた。
ジョゼはセロを連れて西方に位置する館に招待されていた。館は西部住宅区画では一番大きい建物だ。持ち主はゲッペル・シュタイナー。区画長を務めるフォートレストの権力者の一人だ。
権力者と言っても名ばかりで、面倒な雑用を押し付けられている立場だったりする。新たな入植者へ街についての説明をしたり、簡単な取り決め等をまとめた書類を作成したりしていた。また、字の読み書きが出来ない者の初期教育をする役割も担っている。
シュタイナーは生真面目な性格であったが、頭が良いとは言いがたい初老の男性である。おまけに小心者だ。その分、ズルをする事もなく雑用を真摯に行うのに向いていた。そんな彼がジョゼを招いた理由は二つあった。一つは雑用と呼ばれる業務が山積みになり、自らジョゼの店に出向けなかった事。二つ目は気味の悪い物を持ち運ぶ勇気がなかった事だった。
「これが貴公の言う呪われた楽譜か」
ジョゼは机の上に置いてある楽譜を指差した。
部屋にはジョゼとセロ。そしてシュタイナーが不安そうに二人の後ろに立っていた。机は応接室の真ん中にあり、質の良くないソファが取り囲むように設置されている。床は老朽化が進んでいるものの、しっかりと清掃が行き届いていた。机やソファの下には厚手のカーペットが設置されており、古い床を保護しているのだろう。
館の主は楽譜を見ようとしない。対照的に招かれた二人は楽譜を凝視する。紙にしては、やや厚みがあるようで角は内側へ少し巻いていた。
ジョゼは楽譜を手に取り、隅々まで観察した。楽譜の表面を手で撫で回したり、目元まで近付けて、あらゆる角度から楽譜を見た。そして、匂いを嗅いだりする。あげくの果てに楽譜を舐める奇行におよぶのであった。
「気を付けて下さい。この楽譜は死を招く楽譜でございます。触った者を不幸にし、奏でた者には死を引き合わせる楽譜でございます」
シュタイナーは恐る恐る語りだす。
「最初の犠牲者は楽譜を作った男でした。放浪の旅人が奏でる音色に魅了され、この楽譜に起こしたのです。しかし、楽譜が完成した翌日に押し込み強盗によって彼は殺害されたのです。次の犠牲者は彼の妻でした。死亡した夫の遺作を手に取り、奏でてしまったのです。彼女はヴァイオリンの名手でございました。愛する夫の楽譜を見て惹かれてしまったのかもしれません。彼女の演奏はとても悲壮に満ちていたと噂されました。夫を亡くした翌日の晩に通り魔によって命を落とします。更なる犠牲者は、そこに勤めるメイドでした。このメイドは主の資産を金に替える為、売れる物はすべて、裏ルートに流したのです。そうです。楽譜は裏の売買を通じて世間に解き放たれました。メイドは売買の為、楽譜を手にしたので不幸が訪れます。数年は遊んで暮せる程の金が仇となり、裏稼業の者に目を付けられ命を落としたのでございます」
「なるほど。たしかに恐ろしい楽譜であるようだな。しかし、何故そのような楽譜がここにあるのかね? 触れた者を不幸にするのであれば、ここに運んだ者も不幸に見舞われる可能性がある」
ジョゼは楽譜を上下に振り回しながら尋ねた。
「ジョゼ殿! そんな乱暴に楽譜を扱わないで下さい!」
「ぬ。なにを言うシュタイナー。この楽譜は数々の罪を背負っているのだぞ。多少の仕打ちは免れぬ」
二人のやり取りを眺めるセロは確信していた。シュタイナーの依頼は楽譜の処分である。呪われた楽譜を遠ざけたいのだろう。小心者の彼がしそうな依頼であった。
「さて、シュタイナー。一体誰がこの楽譜をここに置いたのだね?」
ジョゼは楽譜を小脇に抱え問う。間違いなく楽譜を持って帰る気なのは、誰が見ても分かった。
「今朝、エダとか言う大柄な男が置いて行ったそうです。なんせ、私は午前中は会議に追われてまして、使用人のジョバンナが話を伺ったのです」
「そうか。エダと名乗る大柄な男なら安心だ。不幸などとは無縁の生き物だからな。どう料理しても喰えん男だ」
それにセロも同意した。あの筋肉の塊なら心配はいらないだろう。精神面も心臓に毛が生えているに違いないし、その毛が針金で出来ているのも疑いようもない事だ。
「では、まずはジョバンナに話を聞こう。シュタイナー。楽譜は貰っていく。問題ありますまいな?」
「是非、お願いします。その忌まわしい楽譜がここにあるだけで不安でしょうがないのです。えぇ、どうぞ」
「結構。これにて用件は済んだと考えてよろしいな?」
「はい。どうか被害の拡大を抑えて頂ければ幸いでございます」
彼は深々と頭を下げた。被害は被害でも自分に降りかかる被害は回避したといった感じが滲み出ている。
ジョゼは振り返り扉へ向かう。それに対しセロはシュタイナーに丁寧なお辞儀をしながら口を開いた。
「ご依頼料の請求は後日、送らせて頂きます」
「セロ。行くぞ。まずはジョバンナの元に向かう。本来ならエダに話を聞きたいところだが、あいつは神出鬼没だからな」
館の使用人、ジョバンナとはすぐに会う事ができた。館の清掃をしていた彼女はジョゼに声を掛けられると歓喜の声を上げた。持っていたモップを足元に落とし、短い赤毛をひたすら撫でる。きっと髪型を気にしているのだろう。さして変わり映えしない髪形のまま口を開いた。
「は、はじめまして! ジョバンナ・エンリケです。お会い出来て光栄です!」
そばかすのある顔は初々しく、瞳を輝かせながらジョゼの顔を見る。
「そうか。あなたがジョバンナですか。ご存知かも知れないが私はジョゼ。実はこの楽譜を持ってきた者とのやり取りを聞かせて頂きたく参上した次第」
小脇に抱えた楽譜をはたき、彼女に見せる。一瞬、ギョっとするジョバンナ。その表情からは「呪いの楽譜、触っちゃったんですかー」と、呆れとも尊敬とも言えない複雑な面持ちが見て取れた。
セロは面白くなさそうに冷たい視線を二人に送ったが効果は勿論ない。
ここで得た情報は大柄な坊主。つまりエダ・マサトシの事だが、ジョバンナが語った内容はジョゼの好奇心を掻き立てた。
―――
「
エダは西部住宅区画の責任者が管理するべきだと述べ、シュタイナーに面会を求めたそうだ。
午前中は会議になっていて即時面会は出来ないと説明した。そこで大柄な筋肉男は応接室で待つ事は可能か?と尋ねる。ジョバンナは待つ事を了承した。
彼女は出来る使用人だ。突然の訪問だったとしても、茶の一つも出すのが礼儀と察し、応接室に紅茶を運ぶ。しかし、大柄な筋肉は居なかった。
ほんの僅かの出来事である。調理場に行き、お湯を沸かし、紅茶を淹れ、応接室に向かう。十五分程度の時間だ。調理場から応接室の出入り口は一本道の廊下で見通しがよく、扉が開いたら確実に気付ける距離でもある。
部屋に残されたのは机の上にある楽譜のみで、窓から入る穏やかな風がカーテンをなびかせていた。エダは窓から外へ行ったと誰もが想像出来る状況だと彼女は言う。応接室は一階にあったので苦もなく出る事が出来るだろうとも付け加えた。
「なるほど。セロはどう思うかね?」
ジョゼに意見を求められると、小柄な身体を伸ばし語りだす。
「はい。エダ・マサトシと思われる人物は窓から出ていったと結論付けるのは難しいと思います」
ジョバンナはセロに反論した。
「きっと、呪いの楽譜から何か出て来たのです! 例えば死神とか死霊とか。だから驚いて、外に逃げ出したと思うんです」
すかさずセロは説明する。
「ジョバンナさんはエダ・マサトシの事を誤解してますよ。あの人が焦って逃げるなら窓ガラスごと突き破りますよ。扉なら蹴破りますし」
「では、こっそり窓から抜け出したと考えるべきかと……」
「それも違うんです。扉から出なかったのは人の目を気にしたから。でも本当に気付かれずに外へ出たいなら、窓から出た痕跡を出来るだけ残さないと思うのです。窓を開けっぱなしに、それもカーテンが揺れるような風のある日に。わざわざ、ここから出ましたと言い残すような行動をする意味がわかりません」
ふふんっと自信に満ちたセロは両手を腰に当てた。ジョゼは関心するジョバンナの顔とドヤ顔セロを見比べ言葉する。
「では、セロ。続けて」
「何をですか?」
セロの素朴な猫目がジョゼを見た。
「何をって? ……お前、まさか。そこまで推測が出来ていて気付いていないのか?」
その言葉に首を傾げる行動によって応える。
しばしの沈黙。ジョゼは無表情のまま固まっていたが、セロは気にも留めずに口を開いた。
「私の役目は事件の解決ではありませんよ。状況を的確に把握しジョゼ様をサポートする事なんです」
「ふむ。結構」
納得の笑みを表すように頬だけを引き上げた。
「あの~。それでエダ・マサトシという男はどこへ?」
当然の質問をジョバンナが言った。
ジョゼはくるりと踵を返し玄関に向かいながら答える。
「今は謎のままにしておきましょう。では、失礼」
セロも「では、また」と普段みせない澄ました態度で後に続いた。
小さな目の門をくぐり館の敷地から出た二人は、街の中央部へ続く道に足を向ける。一度、ジョゼが振り返り館を少しの時間だけ眺めた。
西部住宅区画で一番大きな館だが、その殆どの部屋は公共施設のようなものだった。冒頭にも触れた通り、シュタイナーは区画長を務めるフォートレストの権力者の一人だ。夕暮れから夕飯時までの数時間、初期教育の講座を開いている。広い館の殆どは講座に使われていた。
講師といえる立場にある人たちは皆ボランティアで、様々な人たちが入れ替わっている。勿論、初期教育なので専門的な知識は必要とされない。字の読み書きがきちんと出来る者ならば誰でも教壇に立てたのだ。ただし、講師は一年間しか継続できない事と、講師を終えた年から五年間は教壇に立てないというルールが存在した。これは西部区画だけではなく、どこの区画も同じである。そして、このシステムを考えたのはヨーゼフであった。
生徒となる人たちも様々である。子供から大人まで。強制的な教育制度ではないので人数は安定しないが無人になった事はなかった。また講師を志願する者も不足する事態はない。
講師の殆どは元生徒であったし、初期教育の重要性を理解していたと同時に恩返しのような気持ちがある。
そして、シュタイナーは他人から恨みを買うような人物ではない事をここに記しておこう。
「ジョゼ様。どこに向かうのですか?」
彼の表情を伺う為、横に付いて覗き込むように問いかけた。
「まずはヴァグダッシュの酒場だ」
視線を彼女に向ける事なく答えた。
「エダさんは酒場には居ないと思いますよ」
「なんだ。やはり気付いていたのか?」
セロはその問いには答えず、八重歯を少し見せるだけであった。
<中篇へ続く>
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