叙事詩 第零幕 始まりの唄
それは個であり、存在意義など持たない。
それらは集合体でありながら、個を尊重し存在する。
脳内のシナプスが電気信号を経て連結し活動する。想いや思想、感情は電気信号によって初めて表面に現われた。また連結活動を続ける事によって情報量は乗算、または二乗され続け莫大な情報に変化する。それを消費させるのが表面化した事象であって、肥大し続ける情報を制御した。
個は演算を繰り返し続ける。
個は表面化する事を望んだ。
そして、個は少し寂しいと思っていた。
丸底フラスコに住まう唯一の住人は、窓越しに外を眺めていた。正面に見えるのは露店販売。売っているのは食べ物だ。何かの肉を手のひら程度の大きさに切り、炭火で時間を掛けて熱を通す。青々とした菜っ葉で、巻き付けて紐で結ぶ。恐らく香ばしい匂いがするのであろう。肉汁が炭火に落ちて、
肉を切っている初老の人間は
そして、問題は娘の綺麗な髪を引っ張る、生まれたての人間だ。生まれたての人間は生命を宿し、二つの季節を過ごした程度であろう。性別が判らないのだ。言葉もろくに発する事もなく、動物のように鳴くだけである。今ある外観情報だけではとても判断ができない。おまけに生まれたての人間は娘の背中に装備されていて、私の視界にはあまり入らないのだ。
もし、娘が産んだ人間であるという前提で考察した場合、生殖行動を行った雄が存在するはずだ。しかし、私はそれらしい人物を未だに目撃していない。初老の雄が交配相手と考えるのが普通なのかもしれない。
だが、私は知っているのだ。人間は近い遺伝子同士では、交配したがらない傾向にある。その非生産性的な仕組みはわからないが、必ずしも雄と雌を掛け合わせる事が人類を増やす行為となっていないようだ。
私はご主人様に、娘の交配相手について尋ねた。
ご主人様はとても物知りで、世間の事情にも詳しい方なのである。彼は私の住居を手に取り返答してくれた。
「あの娘はシャリー・ロッテルダム。
ご主人様は
私はご主人様に問う。シャリーという天才的な料理人が、作る物を私は摂取する事が出来るのだろうか。そして、私はそれを美味しいと感じる事ができるのだろうか。
「ふむ。前者の答えは可能だろう。しばしの時間を待つと良い。しかし、後者に関してはお前次第で答えは変わる」
なるほど。味。つまり味覚とは、私次第でどうにでもなってしまうモノなのか。これは興味深い。
私がじっくりと思案し始めると、彼は丸底フラスコを優しく置いた。依頼された仕事に戻るようだ。
突然、彼は
「フラスコの住人。お前と話していて良い店名が浮かんだぞ。一方的な感謝をしよう」
私は無邪気な笑顔のご主人様に店名を聞いた。
「あの店の出す料理は奇想天外。そして魔物を素材とした巧みなアレンジ料理。店名はこれしかない」
私は驚かない。
「うっかりドッキリ・ハングリーうまいウマイ店」
予想以上、まともな事に私は驚いてもいいだろう。意味が十分に伝わる。いや十二分に伝わる。空腹と美味しいという表現が、隣り合わせにあるところも評価できる。候補に挙がっていた店名の「バート刀の錆び彼方へ店」や「馬の骨こんがり美味しく店」よりは数段に素晴らしい店名である。簡単に言わせて頂ければ、ジョゼにはネーミングセンスはないのだ。そう
私が人間の肉体を得た時は、彼が命名してくれる契約になっている。頭が痛いのは気のせいではない。確かな頭痛だ。肉体を得た時に丸底フラスコに居た記憶は、すべて消えるらしい。この頭痛も綺麗になくなるのは、嬉しいが少し寂しい。
そういえば、彼は過去に私にこう言った。
「記憶とは、あやふやな物だ。なくても支障はない。ただ、思い出は記憶とは異なる存在だ。お前が惜しく思う物は、記憶ではなく思い出なのだろう。安心しなさい。記憶は消えても、思い出は消えない」
沢山の季節が廻った。
真っ白な雪景色を見た。色鮮やかな季節。強風が雲を押し流す日。降りしきる大粒の雨。闇を切り裂く落雷。そして数えきれない程の人間を見た。そして私は人間の身体を持つ時期になった。
だから記憶は消えた。
ジョゼと名乗る男が、肉体を持った私に言った。
「私はジョゼ。お前との契約で命名する」
さて、なんて名付けられるのでしょうか。何故か若干の不安が過ぎった。
「現時刻をもって、お前の事をセロと名付ける」
あれ。思ったよりも良い名前。
「セロとは極東に近い国の言語で
饒舌に話すジョゼを見て私は感じた。
多くの季節を費やしても彼は変わらない気がする。心のどこか判らない場所がそう思わせた。
私はセロ。ジョゼと呼ばれる男と契約した元丸底フラスコの住人。
ジョゼとセロの物語は今始まる。
――叙事詩 第零幕 始まりの唄 完
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