優れた作品を読んでいると、私は二つの世界に没頭してしまう。一つは目の前に提示された作品の世界、もう一つは私自身が思い描く空想の世界。読者でもあり作者でもある人ならば、提示された作品を読み進めることで様々なことを想起する、つまり刺激を受けるといったような経験はあるだろう。
そうして二つの世界を行き来するために、また、結末に向けて進む世界と離れることを惜しむために、自然と読書の速度は遅くなる。それが却って読書経験を濃密にさせるのだ。
先に、優れた作品と言った。では、優れたものとは何だろうか?
一つの基準となり得るのは、多くの人々が賛同し認めたものだということ。しかし、そこに一つの落とし穴がある。大衆の認めないもの、あるいは目に触れないものなどは、優れたものではない、場合によっては劣ったものとされてしまいかねないのだ。この基準が極めて脆弱な地盤に拠っていることは、わざわざ主張する必要もないだろう。
おそらく、絶対なる基準などは存在しない。となれば、最終的に頼りになるのは、自分の感性だということになるだろう。
さて、この作品ではそうしたこと、つまり何に価値を見出すかについて、極めて豊かな筆致で描かれているのだ。
東京からやって来た男性のキリンさんと、秋田の田舎町に住まう金魚さんこと私。この二人の共同生活は、些細なことをきっかけにして始まる。
作者はこの作品のジャンルを「恋愛」と設定しているから、単に数日間のささやかな恋愛模様を描いた作品として楽しむことができる。けれども、もっと深いところまで注意を向ければ、この作品世界に様々な価値観が対置されているのが分かる。それが全くの偶然ではなくて、意図的に対置されたものであることは読んでいけば分かるだろう。
それらをここに羅列することは避けるが、それら対置された価値観の中で、一つだけ異質と思えるものが存在する。それは、ブラジルである。秋田の田舎町での物語にどうしてブラジルの風習が紛れ込んでくるのだろうか。もちろん、無意味に登場しているわけではない。これはおそらく、対置された価値観が全てではなくて、第三の選択肢、即ち第三の生き方があるということを示しているのではないか。
彼らはそれに気付いただろうか。
気付けなかったとして、今までの生活に戻っていくのだろうか?いや、そうではないだろう。また同じ生活に戻るとしても、何かが決定的に変わっているはずなのだ。それをもたらしたのは、最後に一度だけ起こる衝突だ。人はきっと、その思いを胸に生きていけるものだ、少なくとも私はそう思いたい。
……翻って考えてみれば、私自身も彼らに寄り添う第三者として、この作品世界に没頭していた。この作品を読み始めたときから読み終えるまで、同じ椅子に座りながら同じ画面を眺めていた。外的には何も変わらない私は、この作品を読むまでの私とは違う存在になっていることだろう。
そうして、謂わば生まれ変わった私だが、優れた作品であるという印象だけは変わらずに残った。
もっと直截に言えば、私はこの作品が好きなのだ。