エピローグ

 十日目も、空はどんよりとしている。幸い、降り出すことはなかったけれど、いつ気まぐれを起こすとも限らない。「もし必要なら売店で傘を買ってくださいね」と念を押すと、スーツを着たキリンさんは、世話を焼かれて嬉しがっているようだった。

 こうなると、わたしは調子付くのである。

「忘れ物はありませんか? 忘れても、名前も住所も知らないんですから、届けようがありませんからね? しっかり確認してくださいね?」

「大丈夫大丈夫、もともとそんなに荷物がないから」

「またそう言って……家を出るときにペンケースを忘れていたじゃありませんか。いくらでも替えが利くからって、そんなにあっさり物を手放しちゃいけません」

「はい、はい。大丈夫」

 むっと口をへの字にしたわたしを見るなり前屈して笑い出したので、人通りがあることも忘れてくどくどお説教をした。

 関東方面へ出る新幹線を利用するには、県庁所在地まで移動する必要があるのだが、とにかく本数が少ない。一本逃せば、次は一時間ないし二時間後といった具合に無慈悲なタイムテーブルとなっている。東北の地を踏み、手始めにすかすかの時刻表と路線図を目にして、特に路線図については「こんなに隙間があるなんて思いもしなかった」と茫然自失に陥ったそうだ。

 だが、彼の長い旅路も今日で幕を下ろす。

 駅舎に放送が流れた。雑音に縁取られたアナウンスが、目的の電車が入ってくることを知らせる。あとは有人の改札を抜けてプラットホームに立つだけだ。わたしはそこまで見送るつもりはなく、駅舎の外で、こうして彼と向かい合っている。

「今日までありがとう」とキリンさんが言った。わたしは頭を振って、楽しかった旨を素直に伝える。事実、彼との生活は新鮮であり、発見の連続だった。眼差しはどれを取っても穏やかで、世界平和とはこんなにも簡単に手に入るのだと錯覚を起こしそうなほど、わたしの身の回りは安寧としていた。これを楽しくないと誰が言えようか。

「お元気で。お勤め、頑張ってくださいね」

「うん。金魚さんも、元気でね」

 別れはあっさりしたものだ。

 車両がけたたましくレールを擦り、怪物の咆哮を轟かせる。それを合図に「じゃあね」と片手を挙げたキリンさんが、ボストンバッグを肩に担いで駅舎の中へ去って行った。わたしはにこやかに手を振り、外からホームに目がけて駆け込んでいく乗客に流されることなく、ぼうっとそこに佇んだ。

 本当に、あっさりしすぎている。

 彼らしいな、と小さく噴き出してから駅舎を離れた。なるべく気持ちが明るいうちに、立ち去っておかねばならなかった。腹の中でぐつぐつと、魔女が煮込んでいる不気味な色をした何かが──浅ましい願望、執着。人目憚る女の野心みたいなものの集合体。それらが、今にも吹きこぼれてしまいそう。

 革靴が地を蹴る音が急速に近づいてきた。乗り降りしていた乗客の誰かだと信じて疑わないわたしは振り返らなかったけれど、肩が乱暴に掴まれてぎょっとする。指が食い込んで、強い力で体が反転させられた。博物館で何度も見かけた背広が視界を過ぎる。

 触れるだけのキスだ。

 わたしは目玉を落としそうなくらい見開いて、どちらともつかない震えをくちびる越しに感じ取った。呼吸の仕方を忘れてしまうほど驚愕していると、駅舎から発車のアナウンスが流れてきた。

 濃紺の服地が離れていく。

 わたしは俯いて、一度だけ、煙草の苦味が残るくちびるをぐっと噛む。

 けれどすぐに顔を上げて、ぎこちなく微笑んだ。

「いってらっしゃい」

 胸板を押す。とん、と小さな力を加えただけで、彼は後退した。

 キリンさんも、泣いているのか笑っているのか分からないぐしゃぐしゃの表情で、

「いってきます」

 と応えた。

 今度は、駆ける背中が最後尾に乗り込み、発車するまでを見届ける。彼はわたしを見なかった。車両はかたんかたんと機械の靴音を響かせながら、湿ったホームから荒野へと旅立った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水槽のヒール 壇ゆり @sasame9_1yuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る