それでも歩く(3)

 九日目の朝には、泣き虫な梅雨が帰ってきた。

 ブラジル人は傘を差さない、という話をまた思い出した。陽気な彼らは傘を差さない、持ち歩かない。出先で雨に降られたら、どこからともなく現れた傘売りのおじさんが、手際良く折り畳み傘を売るんだ──

 雨は、憂鬱だ。濡れると体が冷えて風邪を引く。洋服は水を吸い、靴の中だってびしょびしょ。鞄の中にお気に入りの本が入っていたりしたら、それもしわくちゃになってしまう。けれど、案外悪くないものだなと心変わりをするようになったのは、今年の梅雨が、三十年というわたしの年月を振り返ってみても、格別素晴らしい日々となったからだ。

 それを噛み締めて、雨が降り注ぐ庭を縁側から眺めていたら、キリンさんが近づいてきて「きみが描きたい」と言った。是非を問うのではなく、願いを聞き届けてくれと言わんばかりの、強い語気と改まった態度が、わたしの体温を上げた。

 断る理由はなかった。「わたしで良ければ」と、ダンスのお相手を承る淑女の心持ちになる。エプロンの端をつまんでそれらしく振舞うのも一興だっただろうか。

「きみに触れても構わない?」

 その尋ね方は卑怯だ。

 上向きで差し伸べられた手のひらは、既に何度か掴んでいるから、初めて触れ合うわけではない。けれど、触れたい、という明確な目的を前提とするのは初めてなので、途端に彼が未知の生物のように見えてしまって、くらりとめまいがした。感情がごちゃ混ぜになりながら、ちょん、と指先を落とす。穏やかな微笑みに促されて、弾けるみたいに躊躇ってしまった手を滑り込ませたら、力強い体温に強く引かれた。

 温厚なキリンさんの、男の性を垣間見た。

 獲物を罠に仕掛ける狩人の目つきになって、なのにすぐに気配を引っ込める。「今日はよく降りますね」と誤魔化しても、平然と応答する。自若として座して待つ、そんな人だとばかり思っていたけれど、本当はそうではないんだよと声には乗せず主張する。はっきりと口にしないのは、明日帰ってしまうからなのか。それとも、これはただの夢であり、空想であり──そもそも、わたしとキリンさんの出会いからこれまでは、誰かがめくるページの中の出来事であるのかもしれない。わたしたちは誰かが紡いだ物語の登場人物であり、呼吸のタイミングすら、作家の手により計算し尽くされているのかもしれない。

 こんな話、馬鹿げていると笑われてしまうのだろうな。

 けれど、すぐそこで、思いのままにわたしをスケッチしているキリンさんを見つめていると、こんなにも幸せであったことなどないと、泣いてしまいたくなる。世界中に存在する無数の奇跡をかき集めても、この人に出会えた以上の燦然とした幸いは、きっとない。

 だからわたしは、ページで踊る道化でもいい。

 そんなふうに、今は思う。

「もう一度、あの絵を観に行っただろう?」

 とキリンさんが言った。わたしはすぐに頷いた。

「ええ」

「あの絵の少女が、どことなくだけど、きみに似ていた」

「わたしに?」

「うん。顔立ちや目つきがとかでなく、心に秘めた強さが、とても似ていると思った」

「それは──」言い澱み、自嘲する。「買い被りです。ただの弱虫だもの、わたし」

「けれどきみは前を向いた」

 スケッチする手が止まる。

 優しさをふんだんに湛えた声が降る。

「僕はきみを見て、逃げるのを止めた」

「ご両親から?」

「そう。まあ、最初のトライは惨敗だったんだけれどね。公衆電話から実家に連絡したら、大喧嘩になっちゃったよ」

「ああ、公衆電話は、ご家族に……」

「例え相手が親兄弟だとしても、気持ちを伝えることの難しさを改めて学んだ。打ちひしがれて、河川敷でぼんやりしていたら日が暮れてしまっていた。だからあの日は、きみを置き去りにしようなんて微塵も思っていなかったんだ。寂しくさせて本当にごめん」

「それはもう、いいですってば」

 わたしは赤面した。

 確信犯に違いない。キリンさんがくすくすと笑っている。

「じゃあ、お帰りになるのですね」と尋ねた。

 これまで、核心に迫る問いも話題も避けていたけれど、わたしの心は、嵐など知らぬ爽やかな海そのままで、どんな秘密を打ち明けられても受け止めるだけの余裕があった。顎を引き、背筋がぴんと伸びて、だらしなくなっていた精神に張りが戻りつつあることを感じている。わたしは修復した。そしておそらく、キリンさんもまた、修復を終えるのだ。今、ここで。

 彼はただひとこと、「帰るよ」と答えた。

 それきり、どちらからともなく黙りこくり、地表をしとどに濡らす雨が、わたしたちを水底に閉じ込めていた。キリンさんの手はわたしを何枚も描いては廊下に散らかして、心ゆくまで──わたしをその長くて綺麗な手指に刻み込むかのようにして──鉛筆を動かし続けた。

 わたしは果報者だ。完全に老いてしまう前の、美しい時を彼に記録してもらっている。彼の手に、眼に、脳に、わたしの輪郭と質感が焼きついて、感触と熱が皮膚からずっと奥へと、染み込んでいく。

 昨日、どうして大判のスケッチブックではなく、A4のコピー用紙に描くのかと尋ねたら、彼は面白い返答をした。「自分は絵描きではなく、ただ趣味と息抜きを兼ねているだけだから、構えることなく気軽にやりたいんだ」と。キリンさんらしいなと笑った。それは一見、自身の絵に対するこだわりのようであり、その実、経営者の跡継ぎたる自分自身へのこだわりに過ぎなかった。彼の線引きは最初からはっきりとしていたのだ。

 いばらは千切られた。

 段差に足をかけ、乗り越えるための力も、充分蓄えた。

 わたしは息を吸う。吐いて、吸ってを繰り返す。ああ、生きている。

 尾びれをふよふよ遊ばせ、ぷっくりしたお腹を砂にくっつけて、脈動する命をのびやかに実感する。そして充足する。満たされて、自然と安堵が言葉となる。

「水の底にいるみたい」

 長雨の恵みを賜る外を何気なく見渡していたら、心地良さから、ふつりとそんな感想が浮かんだ。キリンさんは手を止めて、わたしと、わたしが眺めやる外に視線を移してから、ふっと口端を吊り上げて言った。「水槽の中に、ふたりきりだ」

 そう、この家は水槽だった。

 金魚鉢では、キリンさんには狭すぎた。水族館並みの巨大な水槽を拵えなければならなかった。わたしは彼にここを提供したけれど、やはり、キリンは大きな動物で、荒野を生き抜く力強い生命だ。狭苦しい世界で、窮屈そうに体を丸めているよりも、のびのびと大地を駆けてほしい。

 それに、キリンだから。首が長くて、水槽から飛び出してしまうもの。

 思いついた比喩にくすりと笑う。「急に笑って、どうしたの?」疑問符を浮かべる彼に何でもないよと首を振り、今日の予定を尋ねた。彼はただ、こう答えた。

「きみを描いていたい」

 焦げつく熱を抱く瞳。囚われる。

 こんなときばかり、優しくない顔をするなんてずるい人だ。わたしは面映くなって、伏し目がちに頬を染めた。

「では、ずっとこうしていましょう」

 日が暮れて、夜に隠れてしまうまで。

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