それでも歩く(2)
翌朝、六時半を過ぎてもキリンさんは起きて来なかった。
「今日の東北は広い範囲で晴れる見込みで、梅雨の貴重な晴れ間となるでしょう。日中の最高気温は二十五度を超えるところが多く、朝から非常に強い風が──」
朝のニュース番組で、愛嬌があると評判の若い女性アナウンサーが天気予報を読み上げている。それによると、今日は梅雨時では珍しい晴れ模様となるらしい。確かに、先週ぶりの青空が広がっている。渋滞を起こしていた雲は去り、スプレーを吹きつけたかのような淡い白雲が波打っている。オーストラリアの秘境──「白き天国」に似た空だ。
こんなにも気持ちの良い朝は、庭で吸う煙草も一段と美味しかろう。けれどもキリンさんは一向に現れず、七時、八時を回っても音沙汰がない。さすがにこれは様子がおかしいのではとわたしは危ぶみ始めた。昨日の今日で、深夜に抜け出し東京へとは考え難いが(電車が走っていないのだから)もしや、体調を崩しているのではないだろうか。
昨晩に引き続き、今朝の食事もすっかり冷めてしまった。
わたしはそわそわと、座卓の上で手を組み返る。時計の秒針がコチコチ鳴る音に敏感になって、たった五分も一時間のように長く感じられた。もう潮時だ、と立ち上がったのは九時になろうかという頃。あまり使いたくはなかったスペアの鍵をサイドボードの引き出しから取って、母屋を出た。
「部屋を覗かないでくれ」だなんて、鶴の恩返しみたいな懇願をされたわけではない。彼が離れでどんな暮らしをしているのか、はたまた、本当に機織りをしているのかもしれなくても、わたしは驚きはしないだろう。あの人はどこかしら浮世離れしていて、未だに、絵画の世界から現れた異邦人ではないかと疑っているくらいだ。
「キリンさん、キリンさん。起きていますか」
離れの外から声をかけてみた。
引き戸の向こうにはすぐ、四畳半の狭い和室がある。半畳ほどの座卓、手編みのくず入れ。押入れの中に布団が一式。玄関と差し向かいに窓がひとつと、とにかくコンパクトで、あらゆる無駄が省かれている。
──返答がない。
息を呑み、緊張で汗ばむ手を叱咤しながら、鍵を開けた。鶴の機織りを、そうとは知らず暴く老夫婦ではないというのに、いけないものを覗いてしまう予感がして、足が震えた。
シルバーの取っ手に指を引っ掛け、意を決して横に滑らせる。
続いて、玄関と部屋を仕切る障子をすうっと開いていく。中はカーテンを閉め切っているので、照明を落とした劇場のようだった。遮光カーテンを取り付けているため、日中でも夜に等しい暗闇を再現できるせいもあるだろう。手狭なので注意深く観察するまでもなく、すぐそこに寝転がっている塊が見えた。キリンさんだ。
わたしは、ごめんなさいと小声でお詫びしてから、彼のそばに膝をつく。
「キリンさん、キリンさん。大丈夫ですか」
細長い体を丸めて、猫みたいな体勢をして、布団を敷くでもなく眠っている。畳の目が肌を擦って、痛くはないのだろうか。フローリングより多少質感は優しいだろうけれど、わたしだって、ときどきそうして居眠りをして、腰が痛くなってしまうのに。
何度か肩を揺すぶったら唸り声がしたので、どうやら目が覚めたらしい。
と、そこで、わたしは室内の違和感を察知した。
白んでいる。
絨毯は敷いていない。けれど、白い。畳は通常のい草で、これもやはり白くはない。劣化で色褪せているが、白ではない。これは紙だ。学校や、事務作業で見慣れているA4用紙が散乱している。しかしこうも暗いと、何が書いてあるのか判別できない。
「キリンさん、ごめんなさい。窓を開けますね」と言い、わたしは移動した。
歩くと、裸足の下でかさりと感触があった。なるべく踏まぬよう、慎重になる。
彼の返答を待たずして、カーテンで空を切り、窓を開けて自然光と風を取り込む。すると、このタイミングを待ち構えていたのか、突風が轟と吼えて侵入してきた。レースのカーテンを天井近くまで舞い上げる強い風で──今朝のニュースを脳裏に過ぎらせながら──腕で顔を庇う。ばさばさと、背後で鳥の羽音がした。
振り返ると、キリンさんが、くあ、と欠伸をしていた。
その周囲で、鳥の羽根が散っていた。
いや、正しくは、紙が大量に吹き飛んでいたのだ。しかしそれらは、人をも軽々呑み込んでしまいそうな巨大な鳥が、飛び立つついでに散らかしていった羽根のようで、太陽の粒子を浴び、あまりに幻想的だった。
暴れん坊の突風がひとしきり騒いでお帰りになると、キリンさんが「金魚さん、おはよう」とのんびり挨拶をした。おはようという時間でもないのだけれど、キリンさんは至って健康そうで、今朝は単に寝坊したらしいということを知る。わたしは胸を撫で下ろし、「おそようですよ」と口を尖らせた。
左足に落ちた羽根を──紙を拾う。わたしは目を見開いた。
「……これは、キリンさんが?」
「うん、僕が描いた」
照れ臭そうに彼は頷いた。
スケッチだった。
たくさんの風景画。どれも見覚えのあるものばかり。わたしの家、となりの家。バリエーションが乏しい近所の自動販売機や、道端で話し込んでいる二人のおばあさん。いつの間にか住人がいなくなり、年々損傷が激しくなる空き家。水平線のような田んぼと、農作業をするおじいさん。
わたしは、美術のことはよく分からない。
だけれど、キリンさんの絵は、博物館に展示されているあの絵画のように衝撃をもたらした。鉛筆の濃淡が細やかな陰影を作り、人や、建物や、草木などのすべてに、今にも動き出しそうな生命力を感じる。温度がある。優しく叩かれたような気持ちになって、胸がきゅうっと痛んだ。
なんて、この人の生き写しみたいな、穏やかな絵なのだろう。
「僕は、東京で父が経営する会社に勤めているんだけど──」
キリンさんも立ち上がり、そっとわたしのとなりに立つ。
見上げると、寂しさをほんのり滲ませている彼と目が合う。
「それは、僕にしてみれば何の疑問もない、人生の生きがいなんだ。絵は、息抜き。たまにふと、がむしゃらにいろんなものをスケッチしてみたくはなるけれど、これを職にしようとまでは思わない。世の美大生に、にわかだって叱られてしまうかな」
「そんなことありません」
「ありがとう」
だけど、とキリンさんは一度区切って、ラフ画を手に取る。
「分からなくなった」
「分からない……?」
「父との口論が増えた。母は結婚当初から、良くも悪くも父に倣う人だったそうだから、父が正しいと言えばそれを疑わない。噛み付いている僕が、理解できないとも言う。けれど、両親や会社のために経営学を専攻して、その道に入るためだけに下積みを重ねてきたからこそ見えるビジョンがある。僕は現代人だから、どうしてもね、父のやり方は前時代的に思えて反発してしまう」
「だから、家出を?」
「埒が明かないと思ったんだ。子どもじみているかもしれないけど」
「子どもじみているだなんて」
「反発して、罵り合って、解決できないから家を飛び出す。ね、まるきり子どものやり口だ。我ながら短慮だったなって、反省してるんだよこれでも」
「キリンさんが罵るの……? なんだか、想像ができないわ」
「これでも男だからね。金魚さんの前では言えないような、口汚い言葉も知ってる」
それこそ深淵を覗きかねない。わたしは頬をぽっと赤くした。
「でも、決定打になったのは、経営方針じゃない」キリンさんは、さっと顔色を変えた。微笑みが失せ、眉間が僅かに溝を作り、怒りをただ静かに燻らせた。
「僕の息抜きを、父は「無駄」と吐き捨てた」
わたしは、瞬時にして記憶をさかのぼった。
この人がホテルをチェックアウトした日も、似たような話をしていた。
「ずっとね、僕の趣味を馬鹿にしていたんだ。こんな、一円の値打ちにもならないようなことに時間を使うくらいなら、売り上げを十万伸ばす企画書を書けってね」
「値打ち……」
「そう。父にしてみれば、絵は無価値だ。あの人にとって、投資と利益はイコールなんだ。だから、時間を投資しても利益還元のない絵なんて、道端の石ころも同然だ」
「でも、価値観は一人一人違うものだわ」
「父は、論理破綻もいいところだから。そんな理屈は通用しない」
「……頑固なんですね」
「ああ、頑固だ。融通が利かなくて、往生際が悪い。経営方針で、部下がいかに僕の意見を推していても、自分が「悪」だと思えば僕も所詮「悪」なんだよ」
「そんな、めちゃくちゃだわ」
「うん、めちゃくちゃだ。だからね、逃げてしまったんだ」
キリンさんは自嘲するように言い、ため息を吐く。
手中の紙を器用に折って、紙飛行機を作る。もったいない、と思ってしまった。あの翼の中には、彼が描いた世界が詰まっている。それを、どこへ飛ばしてしまおうというのか。遠くへ逃がしてしまうというのか。そんな、戯曲的な口上が浮かんだ。
キリンさんはただ、部屋の中でそれを放った。
出来が良かったのか、紙飛行機は橋を渡るように放物線を描いて、部屋の隅に降下した。キリンさんも、ああして帰っていくのだなと思った。この人は、自分を弱い人間であるかのように語って聞かせるけれど、決してそうではない。いばらを断ち切ろうともがき続けている。それのどこが弱い人間だというのだろう。
わたしにできることを模索した。
荒野で疲弊した彼が、金魚鉢の中に、救いを見出すために、できること。
「……キリンさん、行きましょう」思い立ったが吉日とは、先人も上手い言葉を遺したものである。わたしは、ぽかんとする彼の腕を引いた。「今日は良いお天気です、雨もきっと降りません、だから行きましょう」
「えっ、行くって」
「外へ行きましょう。紙はありますか? 描くものは?」
「あるけど、どうしたんだい?」
「だから。外へ行くんです、今すぐ」
時間が足りない。
今日は八日目。明後日には、彼は東京へ戻る。
「たくさんお描きになってください。わたしの場所、暮らしている世界。小さくて、痩せた土地で、ちっとも自慢できるところなんてないけれど。老いと衰えしかないようなこんな場所も、あなたがいるから、美しいと思えます」
「……うん」
「出会えて良かった。わたしは、あなたに救われました」
キリンさんがくしゃりと顔を歪ませる。
晴天を祝福しているのか、空の高いところで、鳥が鳴いた。
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