それでも歩く(1)
「もう一度、あの絵を観に行きたいんだ」
七日目の朝、六曜入りのカレンダーと睨めっこをしていたら、朝食を済ませたキリンさんが言った。市街地へ向かう電車に乗り、そこから博物館方面に行くバスに乗り換え、と少々面倒な道順になるのだが、それ以上に厄介なのが本数だ。電車も、バスも、地方は利用者が少ないため年々数が減少している。僻地ともなると、一時間に一本走ればありがたいほうだ。
最悪タクシーを利用するのもひとつの方法だが、そうなると距離がある分料金が嵩む。いろいろと不便を強いることになる、と説明したら、キリンさんはどうということはないといった面持ちで微笑み、道順を大まかに書いたメモを片手に出かけて行った。
……見た目によらずアクティブな人なのだわ。
夕食を作る傍らぽつりと独り言を呟いても、返る言葉はどこからも聞こえてこない。これがまた、唐突な侘しさを産むのだ。何しろ、ここのところキリンさんとばかり顔を突き合わせて過ごしているので、一人きりでいる生活を失念しがちなのである。
あの絵を──「それでも歩く」と題されたあの少女に会いに行ったのだとしたら、彼はまだ、整理がつかずにいるのかもしれない。そして結論を出すべく、背中を叩いてもらいたがっているのかもしれない。わたしは隠れ家を提供することはできても、キリンさんの胸のうちに巣食っている苦悩を取り除く術を持たない。可能なら、彼がそうしてくれたように、わたしもまた、安らぎを与えられたらいいのにと頭の片隅で願望がもたげた。
いけない、と自制を繰り返す。
わたしは、甘えたがりの性格をしているほうだ。
三十のわたしは、二十歳のわたしより、少しは大人になっただろう。一人暮らしを始めてからは苦手な家事も人並みに熟すようになり、包丁で野菜を刻むのが上手くなった。コーヒーに入れる砂糖が三杯から二杯に減ったりもした。年を重ねるごとにどうしたって大人になって、不器用な情熱より器用な立ち回りを選択するようになった。
けれど、男がいくつになっても子どもだと揶揄されるのと同様に、女もまた、いくつになっても女でしかないのだ。頼もしい人がいたら寄りかかり、安心感を求めて縋ろうとする。わたしは甘えたがりだ。
だから、自制する。「あの人にこだわってはいけない」と己を叱責する。頭を振って雑念を追い払う。恩返しとお節介はまったくの別物だ。キリンさんが真に求めるもの、その認識を違えてしまうと、わたしたちは公平ではなくなる。
手際良く包丁を操る。とん、とん、とん。
玉ねぎをスライスし、トマトや、茹でたアスパラも、澱みない手つきで処理していく。
そして不意に思い至り、濡れた手を赤い前掛けで拭いながら居間に移動する。ボンボン時計の針が、そろそろ夕方の五時三十分を過ぎようか、というところに差し掛かっているのを見据え、自分の豊かな想像力を呪わずにはいられなかった。
──もし、このまま戻って来なければ。
そんなふうに考えてしまったのだ。
キリンさんは、わたしほど薄情な人間ではないだろう。東京へ帰るのなら、ひとこと伝えてから発つに違いない。そう信じたいだけなのかもしれない、都合の良い夢を見続けたいだけなのかもしれない。勝手な憶測をせず、今ここで、彼に貸していた離れを覗いてみればいい。だが、もし部屋の中が綺麗に片付いていたら、どうしよう。まるで、最初から誰もいなかったかのように、まっさらになっていたら。
味噌汁のために用意したお湯が吹きこぼれる音がして、我に返る。台所に戻りコンロの火を止めて、窓の向こうの曇り空に視線を移す。今日は朝からずっと雲が敷き詰められていて、いつ降り出してもおかしくない天候だ。
そういえば、キリンさんは傘を持っていない……。
「……雨だわ」
順調に夕飯を作り終え、時計が六時、七時、と告げていく。テーブルの上に並べた食事はラップの下でどんどん冷めて、八時、そして九時を過ぎた頃、転寝をしていたわたしは寝惚け眼を擦った。
梅雨の空は、泣いていた。
細かい砂が斜面を滑るような雨音と、次第に数を増やしていく雨粒。わたしはやおら立ち上がって、傘立てからそれを引き抜いて外へ向かった。
帰宅時間など知らない。彼は、わたしに何も伝えていない。
やはり離れを覗けばそこには彼の痕跡すら残されていないのかもしれない。
それでもわたしは諦めたくない。はやる気持ちを抑えながら夜道をサンダルで行く。こだわりや甘えは脇に寄せ、ただ、傘を届けてあげたくて。
ぱんっと開いた傘は紺色で、内側に星空の模様が描かれているので、ちょっとしたプラネタリウムが頭上に広がる。泥水をぱしゃぱしゃと跳ねさせ、人家が点在する山麓を進む。もともと極端に人通りが少ない集落だ。ましてや時刻は夜の九時、街灯もまばらで誰も歩きたがらない。だから、人影を見逃さぬよう目を凝らす。いつの間にか、ほんの少しだけ駆け足になっていた。
民家の灯りが遠ざかると、前方に川が跨っていた。錆びついた橋を渡り、国道に出て南下すれば、やがてもうひとつの集落に辿り着く。家々に囲まれるようにして古い駅舎があるのだけれど、そこまでの道のりがとにかく長い。徒歩にして片道約三十分。東京であれば、三、四駅分の距離だろうか。県内外へ出入りする大型トラックとも、何度かすれ違う。
あっという間に夜道の奥へと消えていくライト。後続車両が、立ち止まるわたしの横をぐんぐん走り抜け、雨以外の音がなくなったところで、わたしは眦を決して、また走り出した。
退屈な景色が続く。あるのは山脈と、麓からずらりと並ぶ水田と、それに沿う道ぐらいのものだ。田植えの時期より前なら、水田はまるで鏡面のようであっただろう。雨が降れば水面に無数の波紋を生み、晴れたら空と融合し、巨大な青のキャンバスとなる。
キリンさんはその風景を羨ましがっていた。こちらでは逆に、天空を突き刺す高層建築の大群には縁がない。自然と人工物の対比が、どこかしら釣り合いが取れていて面白いねと、彼は笑っていた。
いなくなるのだと骨身に染みて、ようやく腰を上げるだなんて都合が良すぎやしないだろうか。偶然の出会いと、微々たる交流だけの関係なのに、こんなわたしは不気味ではないだろうか。でも、キリンさんといると、ありふれた世界の中に無数の「特別」を探り当てることができる。無味乾燥な二十四時間が、とりわけ素晴らしい一四四〇分となる。
あなたがいるだけで、世界が変わる。
名を知ろうともしなかった、路傍の花すらまばゆく映る。知りたがる。
だから、まだまだ話し足りない。聞かせてほしい話がたくさんあるわ。
一方的な願いをこめて走る。運動不足が身に染みる。直線の道がこんなにも長く感じられるのは、わたしの体力が低下したからなのか、はたまた、彼の存在がお前の手など届かぬほど遠いのだぞと、この道のりをもって知らしめているからなのか。
息切れを起こし、ぜえぜえと呼吸を繰り返すうちに、わたしはしゃがみ込んでしまった。ぼうっと光る街灯の真下、傘を投げ出し、膝の上に顔を埋めて、「キリンさんのばか」と八つ当たりをする。半袖から伸びる腕には雨が落ち、水気を吸った髪が頬に張り付いてますます不快だ。
落ちた視線の先では、泥まみれになった足がとてもみすぼらしくて、大声を上げて泣きたくなってしまった。本当に泣いたりはしないけれど、こんなふうに、誰かを必死に追いかけた経験はなかったので、虚しさも一入だった。
「帰るのか帰らないのかぐらい、連絡をくれたっていいじゃない」泣き言を漏らしても、やはり虚しいだけだ。それでも止まらない。「どうせ、もうすぐ帰ってしまうんだもの。いなくなってしまうんだもの。だったらせめて、こんなふうに、急に離れたりしないでほしかった……」
酷いわがままだ。これだから、女は陰気で嫌なのだ。
どれくらい時間が過ぎたのだろう……。遠くで、水と土を踏む音がした。ぱしゃん、ぱしゃん、という音は、最初はゆっくり、徐々に間隔を狭めて近づいて、やがてわたしの目の前で止まった。何だろう? わたしはおもむろに顔を上げた。
キリンさんだった。
聞き分けのない子どもに手を焼いている父親みたいな顔つきをして、落ちている傘を拾う。そしてそれをわたしに被せて雨を凌ぎ、「金魚さんでも、風邪を引くよ」と咎める口ぶりをした。
続けて「どうしたの?」と尋ねる。微笑を含んだ穏やかな口調に胸がつまる。けれどぐちゃぐちゃになった顔をこれ以上見られたくなくて、両手で覆いながら答えた。
「もう、行ってしまったのかと思いました」
「東京に?」
「はい」
「そうか。不安にさせてしまったかな」
「少しだけ……置き去りにされてしまったのかしらって」
「うん、ごめん」
わたしは首を振る。
「いいんです、いいんです。わたし、わがままを言っています」
「でも、金魚さんは僕の恩人だから。だからね、ごめん」
帰ろう、とごく自然な動作で差し伸べられた手に掴まった。立ち上がる拍子によろけてしまって、キリンさんが受け止める。「大丈夫かい? おぶろうか?」と真面目な調子で言うけれどいくらなんでもそれは面白くて、全身に回っていた倦怠感が一気に抜けていった。
キリンさんは、もうすぐ帰る。
行って来ますと晴れやかな笑顔で玄関を出たら、二度と戻らない日が、目前に迫っている。
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