金魚とキリン(1)
市街地から車で約四十分。隣県に伸びる国道を真っ直ぐ北へ走る途中、山の麓の集落に、祖父母の家はある。
二人が相次いで亡くなり(伴侶を追い求めるように、ひと月と間を空けずに息を引き取ったのだ)親族会議の場で危うく未解決になりかけた議題が、この家の管理をどうするかだった。わたしの母を含む祖父の子どもたちはそれぞれ家庭を持ち、一戸建てで生活している。では孫はといえば、五人のうち三人が上京し、残り二人は地元だが、未婚で時間に余裕があるのはわたしくらいのものだった。白羽の矢が立つとしたら、まあ妥当であっただろう。
取り壊して土地を売ろう、と言い出したのは定年間近の叔父だった。
葬儀の日だった。
「もうずいぶん傷んでるし、リフォームするにしても買い手がつかなきゃ意味ないだろう。だったら一度取り壊して、更地にしてしまったほうが管理もし易いし、じいさんばあさんも未練がなくて肩の荷が下りるんじゃないかね」
傷んでいる。買い手がつかない。管理がし易い。
そこまでは、わたしも大人しい孫のふりをしていられた。
しかし、未練がなくて肩の荷が下りる、ときたもんだ。温厚な母が口角を盛大に引き攣らせ、祖母に懐いていた従弟も舌打ち混じりに腰を浮かせたので、それらを横目にサッと手を挙げたのは沈黙を貫いていたわたしだ。取り壊すか否かで親族の意見が割れる中、ざわついていた大広間は、お葬式の最中のごとく、しんと音が消えた。
「わたしが住みます」と、端的に宣べ伝えた。
こちこちと、ボンボン時計が規則正しく時を刻んでいる。それはお坊さんが鳴らす木魚のようであり、爆発までをカウントする時限装置のようでもある。目を丸くする両親、顎が外れそうなほどがっぱりと口を開いた叔父、遺影の二人は柔らかく微笑んで、とにかくその瞬間の室内には情報量が多すぎた。
「責任を持って管理します。お金が必要でしたら払います」
三十年、折り目正しく両親の後ろに控えている物静かな孫でしかなかったわたしは、身にまとった重苦しい喪服ごと皮を脱ぎ捨てたつもりになって、初めて親族に対し異論を唱えたのである。ろくな反抗期もなかった娘の、初めて目にする剥き出しの牙を前に、父も母も鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、結局、わたしの主張はすんなり通ってしまったのだった。
わたしは大人しいふりが上手な孫だった。けれど、お愛想が上手な孫だって、祖父母への感謝や愛情はそれなりに持ち合わせがあって、それらを思い出ごと重機で掻き回されるのかと思うと、名乗り出ずにはいられなかった。結婚しておらず、ある程度自由も利く。これ以上ない人材、妥当な人選だ。
機密性が高く、雪国の大敵である厳寒にも強い。オール電化、おすすめは太陽光発電──そんな宣伝文句の建売住宅の足元にも及ばぬおんぼろ家も、愛着があれば壁の染みまで愛おしい。かくしてわたしは、三十路にして初めての自立と、それに伴い祖父母が暮らしていた一軒家を預かることになった。
それがよもや、こんな形で役立つ日がこようとは。
「部屋数は少ないので、すぐに覚えられると思います。スリッパどうぞ」
木製の玄関ドアは、横滑りでがらがらと結構大きな音を立てる。キリンさんにしてみれば三和土調の広い土間玄関と民家の調和が新鮮であるらしく、並べたスリッパには目もくれず、秘密基地に侵入した幼いエージェントと化していた。
「なんだか、秘湯の宿みたいですね」
先進都市に住んでいる人間ならではの感想は、言い得て妙である。
一昔前の、昭和時代を髣髴とさせる、横長の木造平屋建て。玄関に入ってすぐ目の前を直線状の長い廊下が走り、左手に居間と台所、洗面所。右手に客間と個室が二つ。外観も内装もレトロだが、トイレと浴室だけは三年前に改築済みで、設備もそれなりに充実していたりする。水洗でなかった頃に比べたら、一部のみやたら革新的だ。
それでも、母屋を横断する廊下は当時のままであり、歩けばぎいぎい板が鳴いて、冬なんてあまりにも寒くて、雪原のど真ん中に裸足で放り投げられたかのような冷えを体験できる。その分夏は涼しくて、床に直接ごろんと寝転がってしまうと、いつの間にか居眠りをしてしまっている、なんてよくある話。
不便だが、のどかだ。車の走行音も、星空をくすませるネオンも、すべてが遠い。キリンさんの言う「秘湯の宿」という例えは、的を得ている。
「残念ながら、秘湯ほどロマンはありませんが。中、案内しますね」
と言って、わたしは順繰りに母屋を案内した。
正直な話、浮かれている。
わたし以外の別の誰かが、スリッパを履いて家の中を闊歩しているというだけでもイレギュラーだ。キリンさんは話のひとつひとつにきちんと耳を傾け、相談にも応じてくれた。時に笑い、顔を突き合わせて唸り、ああでもないこうでもないと言葉を交わしていくうちに、祖父母が亡くなってから色褪せてしまった景色が、キリンさんという新風に吹かれてたちまち鮮やかに蘇っていた。
粗方の話し合いを居間で終え、一人では飲み切れなかったポットの麦茶が空になる頃、わたしは座卓の上に鍵を置いた。招き猫の根付がぶら下がるそれは、この家を預かって以来、掃除以外の目的で立ち入る機会のない離れの鍵である。
「これをどうぞ。昨日掃除をしたばかりなので、中はそのまま使える筈です」
「どうもありがとう、恩に着ます」
「着るほどのことでもありません。あっ、でも離れにある着替えは、もしかしたらキリンさんには少し小さいかもしれませんので、本当に着れないかも……」
「そんなに?」
「キリンさんみたいに大きな人、あまり見かけませんよ」
「丈が足りていないのなら、足が長いんだと格好良く言い訳できるんだけどな。ああ、それよりも……」と彼は根付をぷらぷら遊ばせながら尋ねる。「きりんさん、というのは、僕のこと?」
わたしは己の失態にはたと気づいて、頬に熱が集中していくのを止められなかった。
ひとことも彼に許可を得ていない呼称なのに、うっかり口に出してしまったのだ。穴があったら入りたいとはまさにこれかと痛感し、「すみません……」と蚊の鳴くような声で詫びた。実は、なんて事情を語っても恥に恥を重ねているだけな気がして、何度も謝罪を挟みながらようやく会話が途切れたタイミングで、キリンさんが小さく噴き出した。
「何もそんなに必死にならなくても」
「だ、だって」
安直だと思ったんです、背が高いから「キリン」なんて。小学生の頃、同じ理由でそうあだ名がつけられた女の子がいたけれど、彼女はよくこんなふうに反論していた。「キリンは首が長いんだから、似てるのはあたしじゃなくてろくろ首の筈でしょ? あたしはどちらかといえばぬりかべよ」
その言い分もどうかと思う、と言ったら、キリンさんはまた噴き出した。
「まあ、確かに僕はろくろ首よりはぬりかべかもしれないけど、妖怪よりは動物でいたいかな」
「じゃあ、キリンさんと呼んでも構いませんか?」
「もちろん。では、僕からもお願いがあるんですが」
「はい」
どんと来い、と気合をこめて構える。折った膝の上に握りこぶしを二つ置いて、きりりと見据えたら、彼はまたまた噴き出したので、いよいよわたしも文句を言わずにはおれまいと頬を膨らませた。しかし、わたしの行動はすべて裏目に出るというか、この人にしてみると笑いのつぼのようなものを刺激するだけらしく、大した抗議にもならなかった。
キリンさんは涙の滲んだ目尻を拭いながら言った。
「ですます調を改めてもいいでしょうか? 息抜きするのに、堅苦しすぎてもどうかと思って」
「ああ……それは、はい、はい。構いません」
「良かった。馴れ馴れしくなったら申し訳ない」
不満に思うことがあればと彼が言うので、わたしはこくりと首を傾げた。
この人から与えられる言葉の数々は、どれも小ぬか雨に似ている。春先の、細かく静かな雨。不快も不満も遠いイメージだ。
わたしはただ、彼に熱烈な興味を抱いているだけだった。
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