金魚とキリン(2)

 出奔男を匿う生活がスタートし、まずキリンさんに伝えておかなければならなかったのは、「梅雨時は網戸に蛙がへばりつくので開け閉めには注意してくださいね」である。

 これが夏真っ盛りになれば蝉に交代していたりして、暢気にみんみん鳴きやがるわけだ。女は三人寄れば姦しいとは言うけれど、蝉は一匹でその数倍騒々しいのだから、どうせ鳴くのなら朝方に目覚ましの役割を果たしていただきたいものだ。だが、奴らの脅威は鳴き声だけに留まらず、飛行中であれば羽音と外観のインパクトで恐怖感が倍増だ。「虫は飛ぶもんだ」とは母の言であるが、そのひとことで納得し冷静に対応できやしない。つまるところ、わたしは虫が大の苦手だった。

 ちなみに蛙も苦手だ。雪国育ちの田舎娘だって、ウインタースポーツは不得意だし土いじりが好きでなかったりもする。わたしはその最たる人間である。

「梅雨が明けるのはもう少し先だろうから、会えるとしたら雨蛙かな」とキリンさんはのんびりと言う。なんだかその余裕が癪に障ったので、ふふんと威張り散らす高飛車なお嬢様のつもりになって、「晴れたらトノサマバッタが部屋に入ってきちゃうんですよ。噛まれたら痛いんですから、夜は気をつけてくださいね」と脅かしてみた。だがやはり、キリンさんは驚くでも慄くでもなく、「忍者だね」と笑って見せた。成る程、昨年のわたしは床下から切っ先で突かれた殿様であったらしい。遺憾である。

 キリンさんの起床時間は朝の六時半。

 庭の飛び石を歩いてやって来る彼は、母屋に入る前に外で煙草を吸う。無地のTシャツとジーンズで、朝ぼらけに紛れている。スーツを着ているときよりかは、人の世界に寄せた存在感を主張しているものの、両手の親指と人差し指でファインダーを模して彼を切り取ってしまうと、そこにはあの、いばらを千切る娘にそっくりな、絵画的な青年がぽつんと立っている。

 わたしに気づいた彼が「おはよう」と挨拶をする。

 朝露を滴らせる若木のようだ。真っ直ぐ天に向かって伸び、枝葉は華奢で瑞々しい。長い指に挟まっているのは、煌々とする火種を宿したフィルターで、自然の気配と文明の産物のコントラストが絶妙な空気を漂わせる。だが、都合の良い妄想や幻想ではない。実在する人物だ。同じ庭の土を踏み、挨拶をして、ささやかな感動に浸りながら空に上る煙を目で追った。

 生憎、天気予報では先週末から連日傘マークがついており、週間予報は概ねそのとおりとなった。初日、二日目、そして三日目と、朝から晩までさあさあと降り続けた。ただし豪雨ではないので、情緒ある雨模様であることは、客人を招いている上で大変ありがたい話であった。

「昨日は庭の紫陽花の葉っぱにかたつむりがいたよ」

「珍しいですか?」

「まさか、東京にだってかたつむりくらいいるとも。公園とか、池のそばとか。コンクリート塀の上を、小指の先くらいの小さな子が這っていたりするときもある」

「見慣れているわりには、楽しそうですね」

「珍しくはないけど、雨が降っているから、その分土のにおいを強く感じるんだ。濡れたアスファルト、喫煙室の空調、デスクの上のコーヒー。どれも生活感はあるけれど、機械的で味気ない。だけどここは土のにおいが身近にあって、生き物同士が自然体で寄り添ってる」

「蛙にバッタに、かたつむり?」

「紫陽花も」

 悠然と彼は言う。

「オフィスビルのジャングルにいると、どうしたってここは、ああ、作り物なんだって気疲れしてしまうときもある。僕は東京生まれの東京育ちだし、コンクリートが当たり前の世界で生きてきたのにね、どうしてだか、ときどき無性に土のにおいが懐かい」

「だから楽しいんですね」

「そうだろうね。すごく楽しい」

 定番となった、朝一番のコーヒーを飲んで、彼は頷く。

「盆地だから山も近くて、きっと、空も近い。歩けばすぐそこに、広大な水田があって、稲の水平線が引かれている。柔らかい畦道を歩いていると、稲の隙間から蛙の鳴き声が聴こえたりするだろう?」

「あめんぼが水の上を歩いていたり、田んぼの中で野鳥がくつろいでいたりします」

「僕が住んでいるマンションの徒歩圏内は、コンビニと駅がある。アスファルトは硬くて、風もからから。殺伐としていて、ちっとも鮮度がないんだ」

「二十四時間営業の店が徒歩三分の場所にあるのなら、手間のかかる田園より余程利便性が高いと思うのですけれど、そうではないのかしら」

「無駄な贅沢をしている、と思うときはあるかな」

「無駄ですか?」

 意外な言葉を聞いて、わたしは首を傾げた。

 キリンさんは寂しげに笑う。

「痒いところにすぐ手が届くのは理想的だけど、あまりに便利だとね、人は考えるのを止めてしまうんだ」

「考えるのを、止める……」

「機械は生活を便利にした、将来はもっと便利になるだろう。しかし、用心しなくては人間が機械に使われるようになってしまう──」

「エジソンですね」

「そう」

 かの発明家は、生活が便利になる一方で、怠慢とゆとりが人間を退化させる危険性を説いた。車椅子に乗り続け、己の足を使わなくなった人間の筋力が衰えてしまうように。豊かな物資に依存し続け、「賄う」という思考を放棄し、人間の能力そのものが低下してしまうように。

 エジソンは遥か昔にそう提言しているのにも関わらず、現代社会では、人間とテクノロジーのパワーバランスの熟慮より、目の前の生産性を重要視する傾向がある。発明家の危惧が現実となりつつあるのだ。

「海が万物の起源であるのなら、土は生き物たちの基盤だ」

 キリンさんの表情はやや厳しかった。

「けど、便利な人工物にばかり囲まれて暮らしていると、自分は何も考えずに突っ立って、排気臭い空気を吸っているだけなんじゃないかって、不安に駆られる。それじゃあ、まるで抜け殻みたいだろ?」

「虚しい生き方かもしれません」

「そうだね。だからここにいると、ああ、生きてるって、実感する」

 と締め括り、今度はのどかに笑った。

 わたしのように、生まれてからこの年になるまで地方で生活していると、どうしても、羨望しがちになるものだ。おしゃれなカフェや、ムードのある酒場、軒並み連ねる数多の専門店に、無数に走る地下鉄。都会の女性はとても華やかで、全身を宝石でコーディネートしているみたいに輝いている。豊かな生活を送り、毎日が楽しいのだろうな、とある種の偏見すら抱く。

 けれど、外側が豪華でも、その土地で生活する人たちの心が隅から隅まで満たされているとは限らない。キリンさんは、満たされていない。

 そしてきっとわたしも、満たされていない。

「……さ、すっかり遅くなってしまいましたから。朝食にしましょう」視界の端にちらついているメランコリックな靄から今ばかりは意識を外し、エプロンの裾をなびかせて立ち上がる。生地の艶やかな赤色を見ていたら、野菜室に保存しているミニトマトを連想したので、今朝はサラダもいいかもしれない。

 すると、コーヒーを飲み終えたキリンさんが「あの……」と呼んだ。振り返ったわたしは、平時であれば上から落ちてくる視線が、このときは下からぐっと食い込んでくる感覚に動揺した。顔に出さなかったのは、半ば意地である。

「きみを何て呼んだらいいのか、ずっと考えていて」

「わたしですか……?」

「自分は名乗らないで、都合良くあだ名で通しているくせに、きみの名前だけ教えてもらうのは筋違いじゃないかなと思ったら、こんな方法しか思いつかなかったんだけど」

「何でしょうか?」

 キリンさんは、空になったマグカップを一瞥してから、

「金魚さん」

 と言った。

 見上げてくる大真面目な瞳の中に、ぐわりと体温を上げて恥じらう自分が映り込んでいる。「赤いエプロンをしているだろう? 裾がふよふよ躍って、金魚の尾びれみたいだなあってずっと思ってた。水槽の中で、さぞ綺麗に舞うんだろうなって」と、とんでもない追い討ちを仕掛けてくる。待ってください、待って、待って。

 ミニトマトを脳裏に描いた自分がやけに子どもじみているようで、年甲斐もなく赤面の至りである。わたしはもじもじと前掛けを握り、やっとこさ、

「でっ、出目金よりは、和金のほうが、いいです……」

 と搾り出した。

 キリンさんはきょとんとしたのち、透明な声を立てて笑った。

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