博物館にて(3)

 月曜は休館日。

 なので、また火曜日に待ち合わせたら、絵の前に立つキリンさんは焦げ茶色のボストンバッグを担いでいた。出張を終えて地元に戻るサラリーマンの装いそのものだ。一週間のうちに、お会いしたのは四日ばかり。短い逢瀬だったな、とこみ上げてくる寂しさにはふたをして、となりに立つ。

 すると、キリンさんは意外なことを語り始めた。

「え、家出……?」

「そう。僕、家出をしているんです。休暇を取ったのは、本当なんだけど」

 ばつが悪そうに頬を掻いているけれど、わたしといえば、予想の斜め上をいくカミングアウントに開いた口が塞がらない。いかにも誠実そうで、博識で、言葉の選び方ひとつにも品のある男性が、出奔中だなんて考えに及ぶ筈がなかった。

 しかし、単なるレジャーにしては違和感があった。キリンさんは、観光を楽しむにしてはあまりにかっちりとし過ぎた恰好をしている。この町は、自慢できる観光名所が少なく、そこを巡るとしても、スーツに革靴では動きづらいだろう。そしてこの四日間、彼の服装は変化がない。着の身着の儘は誇張でも、旅を決意した一時間後にはろくな荷物も持たずに新幹線に乗り込んだのではないだろうか。

 もちろん、それはわたしの勝手な想像だ。ボストンバッグにはたくさんの着替えと小物が詰められているのかもしれないし、例え軽量であったとしても、宿泊先のアメニティーグッズで間に合わせる算段であったのかもしれない。スーツばかり着ているのは、高校生が学生服を着るみたいに、彼にとって普段着に等しいのかも──ほら、想像するだけなら、こんなにも容易い。

 けれど、想像とはまた違った、勘のようなひらめきもまた、わたしにはあった。

「まだ、お帰りにならないのですね」と、ほとんど確信を含んだ言い方をすると、キリンさんの目が驚きを湛えてこれでもかと見開かれた。どうしてわかったのか、と眼差しが問いかけている。

 大した仕掛けがあるわけでもない。

 埃ひとつ落ちていないリノリウムを、眼球で斜めにうろうろと掃いて、失礼にならないようにと躊躇う気持ちを調整しながら、その眼差しに応えた。

「何か事情があるのだとして……」と前置きをしてから、「解決の糸口を掴めているのだとしたら、もっとそれらしい素振りがあっても良かったのではないか、と思ったんです。でも、そんな様子は見受けられませんでした」

「よく、見てますね」

「ずっとここで二人きりでいたら、自然と気がついてしまうこともありますよ」

「はは。まあ、確かに」

「今日は大きい鞄を持ってきているから、チェックアウトを済ませてお帰りになられるのか、と最初は思ったのですけれど……家出をしている、と仰るので。ああ、きっと、まだ何か、すっきりとした心持ちになれていないのだろうな、と根拠のない推量をしてみただけです。当たってます?」

「概ね。名探偵ですね」

 キリンさんは大袈裟に手を打ち鳴らした。

「お恥ずかしい話ですが……仕事のミスが続いたんです。それで父と揉めて……まあ、よくある親子喧嘩の延長かな。父が経営している会社に勤めているから、方針で意見が食い違ったりすると、どうしても衝突は避けられない。今回はそれで少し、溝が深くなってしまったから、休暇ついでに初めての家出を敢行しました」

 カルビのついでに牛タンを注文しました、くらいの軽妙さで彼は言う。

「昨晩、父から連絡があって。馬鹿なことをしていないで、さっさと戻って来いと言うんです。時間を無駄にするくらいなら、仕事に戻れと。理不尽でしょう?」

「まあ……はっきりと申し上げるのなら、理不尽です」

 よく知りもしない人様の親御さんに対し、なんて物言いだろう。けれどキリンさんは、「それで良い」と肯定するかのように小さく頷く。共感を得られて嬉しがっていたのか、相槌として申し分なかったのか、わたしには判断できない。

「なので、誰が帰ってやるもんか、と反抗することにしました。どのみち、休暇は月末までの予定です。ホテルをはしごして、とことん失踪してやるつもりです」

「宿泊代、嵩むでしょうに……」

「構いません、僕の貯金ですから。あの、それで、ご挨拶がてらに失礼かとは思ったのですが、市内にあるビジネスホテルをいくつか教えてもらえないかと……」

 このとき、わたしはぼうっとキリンさんを見上げていた。彼の整った面立ちを食い入るように見つめ、会話の半分も耳に入ってはいなかった。妙案が浮かんでしまったからだ。ただしそれは、出会って四日五日の見知らぬ異性に持ちかける提案としては、健全ではなかった。

「あの、もしご迷惑でなければ──」まるで、秘密基地の在り処をこそりと耳打ちする幼子に立ち返ったつもりになって、きょろきょろと居もしない人の気配に注意を払ってから、大胆な計画を囁いた。「──うちの離れを使いませんか? あるのは机と布団と、灰皿くらいのもので部屋も小さいですが。寝泊りするだけでしたら、身を隠すのにもちょうどいい場所です」

 キリンさんが、ぽかんと口を開ける。

「だめ、でしょうか」

「あっ、いや、駄目というか……ずいぶんと、豪快だなあって」

 困惑している様子がありありと表れていて、わたしは頷いた。

「バラエティ番組で、田舎に泊まろうっていう企画をしていたりするでしょう? あれみたいなものだと思ってください。テレビみたいに、実際に泊めるかどうかは地域性ではなくて人柄だと思っていますが、まあ、あれと同じです」

「しかし、ご家族は……」

「わたし、一人暮らしですから」

 離れのある一軒家に一人で暮らしていることにもまた、キリンさんは驚いていた。未婚だと告げればもっと驚いてくれるのかもしれない。だが、裏の事情は存外単純である。

「元は祖父母の家なのです」と言うと、彼は察したようだった。

 わたしは今、亡くなった祖父母の家を預かっている。平屋造りの母屋と、祖父が趣味で建てたという離れが一棟。手広すぎて掃除が行き届かないくらいなので、一人きりでは隙間風が余計寒々しい。昭和の時代を生き抜いた家で、あちこち傷んでいるが風情はある。夏は暑く冬は寒いとなかなか手厳しい環境も、わたしはわりと気に入っていた。

 特に離れなど隠棲するにはうってつけだ。こちらは祖父が定年退職後に建てたそうで外観もまだ新しい。実際、祖父の友人や親類は寝泊りに利用していたとかで、来客用の着替えも一通り常備されている。キリンさんのように、宿泊用品を持たずして家を飛び出した場合でも、何の問題もなくお過ごしいただけるというわけだ。

「どうでしょう?」

 ともう一度意思確認をする。下から上へ、顔を覗き込む。

 キリンさんは長い指を顎に添えながら、ぱたん、と読みかけの本を閉じるみたいに瞼を下ろした。わたしは鞄の紐を握る手に力をこめながら、相手が答えを出すのを、じっと待っていた。

 程なく目を開いたキリンさんは、おそらくは、彼にしてみれば不審者以外の何者でもないだろうわたしからの、期待と弱気が入り混じった眼差しを受けながら、それでも優しく笑って言った。

「わかりました。じゃあ、お世話になろうかな」

「本当ですか」

 嬉しい、と飛び上がる気持ちで手を叩く。

「良かった、実はちょっとだけ打算もあったんです」

「打算?」

「こういうことを言うと、薄情だって軽蔑されてしまうかしら」

 不思議がるキリンさんを、ちょいちょいと手招きする。高いところからぐうんと頭が傾いてきて、少しだけ近くなった彼の形の良い耳に、口を寄せた。

「三百円が浮きます」

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