博物館にて(1)
雨上がりの空は薄墨の色で、水溜りに世界を溶かしている。
境界線のぼやけたそこに、さながら世界侵略の大怪獣みたいに靴底を落とすのが好きで、わたしはよく、靴下や服の裾に泥が跳ねても構わずに、怪獣の波紋を起こして歩いたものだった。
その日もちょうど、浮気心をひけらかすような天候をしていた。外に出たのは気まぐれで、前の晩にも降っていた雨が、道路の窪みに濁った泥水を溜めていたりして、じめじめとした風が肌に張り付いてきた。
梅雨空が泣き出しそうな六月の中旬、日曜日。時刻は午後四時。湿気のない涼感を求めてふらりと迷い込んだのは、未踏の地に眠る古代遺跡だ。オープンしたばかりの頃は、博物館という施設そのものが小さな田舎町では珍しいものだから、家族連れや文化資料を目当てにする老人たちで館内は賑わっていたのだけれど、今となっては活気もなく、森閑と静まり返っている。
入館料は三百円。口調や目つきに眠気が表れている受付の年配女性に料金を支払って、天井の高い建物の中にひっそりと埋もれ、身を浸す。他の誰ともすれ違うことなく、冷たい光を放つ陳列棚のガラスケースをいくつも通り過ぎて、リノリウムを遠慮がちに歩きながらとある絵画の御前に立つ。
縦に高い三十号のキャンバスに、段差に左足をかけ前屈みになった娘の肖像が描かれている。わたしは絵心もなければ芸術世界の知識も乏しいのだけれど、右足に絡みつく深い緑のいばらと、それを引き千切って傷だらけになりながら一歩を踏み出す左足、棘で傷ついた足を庇うようにして伸ばされた両腕の鮮やかな肌の色、何より娘の凛々しさと苦痛が同居する表情は、今にも額縁に手をかけこちら側に侵略しそうな迫力を感じさせた。
題して「それでも歩く」だそうな。娘の双眸に滾る不屈の闘志を見れば、成る程説得力のあるタイトルだ。このような、見ている者さえも圧倒する屈強な魂を、果たしてわたしは持ち得るのだろうか。そんなふうに心ゆくまで惹き込まれていたとき、遠くから駆け足が近づいてきた。四時半の閉館に向けて職員が館内を見回りしているのかもしれない。
ところがリノリウムを蹴る足音は、微かな息切れを乗せてわたしの横に並んだ。
「ああ……」とその人は魂の震えを吐息に乗せていた。
横目で様子を窺うと、髪や背広の肩をしっとりと濡らしたサラリーマン風の青年が、感極まるといった具合の表情をして絵画に夢中になっていた。頬を緩ませ、前髪から矢継ぎ早に滴る雫が鼻筋から顎へと伝っていくのにもまるで頓着せずに、ひたむきな眼差しを注いでいる。
そしてその姿から、とうとう梅雨空が泣き虫を発揮したのだと知った。折り畳み傘を忍ばせて正解だったわ、なんて自分の采配を自賛する。できれば閉館までに雨脚が弱まることを祈りつつ、鞄からハンカチを取り出す。
若い男性だ。おそらくわたしより二つか三つは年少ではと思われたが、人の年齢を見積もるのが不得意なのであまり自信はない。それはともかく、彼はどこか世界観の違う人物に思えた。スーツの着こなしは甲冑を着込んだ騎士のようであり、真っ直ぐ伸びる背と足は姫君をリードする王子様のそれのよう。田舎者の佇まいとは程遠い。ならば唐突に現れた彼が何者なのかと手前勝手な推量をした結果、この人は地元の人間ではないのでは、とわりとそれらしい予想に辿り着いたのだった。
となると、見ず知らずの異性──しかもどこか近寄りがたく、それでいて現実味の薄い幻想的な存在感を放つ人物だ──に「ハンカチをどうぞ」とはなかなか言い出せない。こうした場合、いったいどうした行動に出ればベストなのか。水気もなく乾いている目許や手を拭うには不自然で、しかしながら取り出してしまった以上は用途に添った行動をするべきだ。薄い布地では大した援軍にもなれまいが、わたしは意を決した。
「あの、よろしかったら」
青年は、ちらりとこちらを見て、ここによもや自分以外の人間がいるなどとは思いもしなかった、とでも言いたげに眼を見開いた。きっと、この絵画の中央から右と左で、二人は分かたれていた。わたしたちの平行世界は、ハンカチが境界線を越えたことによりようやく溶け合い、融合したのだ。
「どうもありがとう」と彼は微笑んで言った。眉尻が下がり、寂しさをほんのりと滲ませ、ずいぶんと柔らかい笑い方をするので、こちらもつられて笑みが浮かぶ。そして受け取ったハンカチで額や頬をひたひたと拭きながら、「素晴らしい絵ですね」と言った。
この場にいるのはわたしたち二人だけなので、相槌を打つのはわたしの役目だったのだろう。現に、彼は返事を待つようにこちらを見たので、慌てて差し障りのない言葉を探した。
「この絵をご覧になりに?」
「はい。休暇を取りました」
「まあ、わざわざ……お住まいは遠いのですか?」
「東京です。結構な遠出でしょう?」
東京から秋田までとなると、新幹線に飛び乗っても到着まで約四時間といったところか。さらに乗り換え、二時間かけてようやくこの町が見えてくる。日帰りの移動は相当な強行軍になるため、この人のように休暇を取って観光がてら訪れるのがもっとも効率的である。
そうまでしてこの絵を求める理由があるのも、不思議でならなかった。この郷土博物館は、地元の工芸品や郷土史を取り扱い、絵画は地元出身者の画家が手がけた作品や、大型施設から引き取って劣化を修復したものなどを展示している。しかし、こうしてずらりと並んでいる作品たちを丁寧に眺めたとしても、地元の人間であるわたしでさえ、作家の名前はほぼ初見だ。「どこそこの中学校に展示されていた緞帳の原画ですよ」なんてパンフレットの説明文を熟読しても首を傾げてしまう。学校に飾られている絵と作者名をいちいち覚えていたりはしない。
それはともかく、いばらを千切る娘の強靭な精神は、東京を飛び出すほどの情熱を若者の心に湧かせたのだ。不夜城の輝きと、山深くの遺跡。どちらにより魅力を感じるのかは個人の好みによるだろう。田舎で暮らす人間が都会に憧れを抱くように、その逆もまた、往々にしてあるのかもしれなかった。
娘の肖像に視線を戻す。
「生命力に溢れた絵だと思います」と言う。事実、この絵からは、逆境や苦境に挫けず、生き足掻こうという気概が伝わってくる。「評論ができるほど精通しているわけではありませんが、どこか、こう、必死なのも悪くはないよと、彼女に教えられているみたい」
「ああ、確かに。今にも語りかけそうな表情をしている」
「人生とは、なんて振り返ってみたくなりますね。例えば昔、小学生くらい。こうして必死に徒競走をしてみたことはあったかしら、なんて」
「あったんですか?」
「残念ながら。運動会は苦行以外の何ものでもありませんでした」
彼は笑った。笑ってくれたので、勇気の要る行いも、報われた気がした。
止まりかけのオルゴールみたいに、ぽつりぽつりと間の空いた会話をしていたら、いつの間にか時刻は四時二十五分。職員と思しき初老の男性に「そろそろ閉館です」とタイムリミットを告げられて、どちらからともなく絵画を後にした。
「あの、もう一度お会いできませんか?」
雨上がりの湿ったアスファルトにひたりと足を乗せたとき、それこそ幻想に身を投じてしまったのだと錯覚を起こした。振り返ると、ハンカチを手に微苦笑を浮かべる彼がおり、むしろそのまま返していただいても構わないのにと声に出しかけたところで、なぜか呑み込む。人の出会いとは、車窓からの景色と概ね同様で、記憶に焼き付くよりも素早く通り過ぎていくものだった筈だが。はてさて、どうしたことだろう。
この人が立つ駅に、降りてみたくなってしまった。
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