水槽のヒール

壇ゆり

プロローグ

 古い平屋の縁側に、影ふたつ。

 濡れた庭を背景にして、女はしずしず、伏せた目許の睫毛を揺らす。

 軒先から滴る雨粒を真似て、ちょん、と手のひらに指先を落とす。人に不慣れな動物に触れるときも、きっとそうして恐々と指を伸ばしては、接触と同時に引っ込める仕草をするものだ。わたしはそれと似た動きをしてから、じっくりと待ってくれている大きい手に、今度こそ自分の指を滑らせた。

 紫陽花の葉が、梅雨の雫の重みに耐えかねてぴょんと跳ねるように。観念して乗せられたさして綺麗でもないわたしの手を、彼は千切りとってしまいそうな力で一度だけ抱き締めてくれた。ん、と眉間を窄めると、すぐに雄々しい力が抜けていき、指の付け根から爪の形や色を、丹念に眺めていく。

 上目遣いがちろりとこちらを射抜くたび、仕掛けられた罠に飛び込んだうさぎの気持ちを味わった。手足にがちりと食い込んだ刃の、容赦の無さがその瞳にもある。瞳の大きな眼が、視線に仕留められて震える憐れなわたしを映しては、意味深にくちびるを吊り上げるので余計心臓に悪いったらない。

 うるさく加速する鼓動を鎮めるために、湿気た土のにおいを吸い込む。「今日はよく降りますね」と何気なく話しかけると、この小雨がよく似合う涼やかな声が「優しい降り方をしているね」と答えた。

 やがて、雨に混じってさりさりと擦れる音が鳴り出した。

 鉛の筆が、紙に黒い曲線を描いている。手の甲の傾斜を昇り、付け根の中手骨頭を通って、関節のしわを細かく書き込む。平面世界に現れるわたしは見事に可憐な形をしているので、美しすぎるのではないかしら、と首を捻った。

 縁側に、役目を終えたスケッチが一枚、また一枚と散らばる。

 花占いをした後の、花弁が散ったアスファルトによく似た光景だ。そのどれもに模写されているのはわたし。手であったり、素足であったり、後ろ姿であったり。こうして一枚ずつ、彼の手と脳に着実に刻まれていくのだと思うと、原型に忠実な新しいわたしの彫像が作られているかのような──煎じ詰めれば、男の手により創造し直された女となったかのような──蟲惑的な悦びを見出さずにはいられないのだった。

 また、雨の景色に視線を移す。しとしと、さあさあ。雨は止まない。

「水の底にいるみたい」

 呟くと、鉛筆を操る手がぴたりと動かなくなる。

「水槽の中に、ふたりきりだ」

 言いながら、彼は笑った。

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