6-15『祭りの後の祭り』6
ちょうど出会った
驚いてはいたが、あとは任せていいだろう。というか別にやることもない。
そうして俺は校門を抜ける。
夜の下を駆けていく。
時間的には、実のところまだまだ深くない。普段のバイトでも、もっと遅く帰ることがあるくらいの時間帯だった。仮にも学校で深夜まで騒げるわけもないのだから当然だが、時計を見たときはちょっと驚いた。
自分がもう少し、深いところにいた気がして。
文化祭という非日常が、気分を浮つかせていたのだろうか。
あるいは篝火に照らされた分、光の当たらない闇夜を深く感じたのかもしれない。
――それとも、単なる俺の気分の問題か。
「…………」
走る速度が次第に遅くなる。いつしか徒歩に切り替わった。
通い慣れた通学路とは思えないほど足が重い。それが完全に止まってしまわないのは、ただ主役理論が背中を押しているから。それ以外の支えなんてもはやない。
いや。本当なら、俺はそんなものを必要とはしないはずだった。
たったそれだけを武器に、俺は高校入学から今日までを走り抜けてきたのだから。
走れないはずがない。
走れないはずがない。
走れないなんてことがあっていいはず、ないのに。
足を進めることで、何か決定的なものが壊れてしまう予感がするのだ。
これまで俺を進めてきたものが、間違っていたのだと突きつける何かが――いや。
「今さら、か……」
単に見えていなかっただけ。
光を追って、それに目を潰されていたに過ぎない怠慢。
これからじゃない。
もうとうの昔に限界だったことに知らない振りをしていただけだ。
とっくに、壊れていたんじゃないか。
――ほかでもない俺が、この手で壊してしまったんじゃないか。
ついに、進む足が止まった。
路地の真ん中で、俺は顔を上げて夜空を仰ぎ見る。
空には星。田舎と呼ぶには半端なここで、天上の輝きはあまりにも微かだ。
ほとんど見えもしないもの。
あるかどうかもあやふやな。
そんなものに、――手を伸ばしたこと自体が間違っていたのか。
俺は、夜空に向かって手を伸ばした。
いつかどこかの公園で、見上げた空には光があった。俺は確かにそれを見たのだ。
だから、いつかこの手に掴みたいと願った。
わかっていたはずだ。――どうせ届かないと。
俺と彼女が焦がれた理想は、初めから手に入らない高みだと知っていた。
その上で、それでも足掻こうと思えたからがんばれたのに。
――まさかそもそも初めから、存在すらしなかったなんてあまりにも間抜けだ。
ありもしない光を仰ぎ、存在しない熱量に焼かれ、あったはずものを失ってしまった。
馬鹿げている。そんな救いのない話は、他人事ならいっそ喜劇だ。
「……っ」
再び、俺は足を動かす。感傷に浸っている暇などない。
前へ進め。今できることがそれしかないなら、俺には選択肢なんてないのだから。
悲劇に酔う権利を持つ者は、過失のない者だけだろう――それくらいは俺でもわかる。
走って、走って、――やがて俺は辿り着く。
進めば進んだ分だけ近づくという、当たり前の理屈に従って。
俺は、かんな荘に到着した。
――そして。
「あ……」
「……っ」
気づいたのは、いったいどちらが先だったのか。
あるいはやっぱり同時だったか。
正面に、小さな少女の人影を捉えた。
あまりにも小柄で。安易に触れたらそれだけで崩れてしまいそうなほど弱々しい。
それは――きっと俺が見てこなかった、友利叶の姿だった。
「……、か――」
名前を呼びかけようとして、そして唐突に息が詰まる。
わからなかった。そんな権利が、今の自分にあるのかどうかさえ、もはや。
その一瞬の、わずかな逡巡が彼女にも伝わった。どうでもいい、伝わらないほうがいい程度のことばっかりが、嫌になるほど正確に。
だから。ただそれだけで、彼女の表情が一気に変わる。
それまでの表情が一瞬で溶けて、代わりに表出したのは、やはり彼女らしくない顔。
「――――っ!」
息を呑むように。まるで何かに怯えるみたいに。
追い詰められて逃げ場をなくした、哀れな小動物用に肩を縮こまらせる。
歯噛みする。身悶えして、この場で叫び出したくなるくらいに、見たくない表情。
今の自分には、彼女にそんな顔しかさせられないのだ。
あの気怠く余裕そうな脇役哲学者の面影が、今やどこにも見つけられない。
いや。あるいはそれさえも勘違いなのか。
俺がわかっていなかっただけで、本当の彼女は初めから――。
「――っ!」
呆然とする俺の目前。
そこで、突如として叶が踵を返して走り出す。
「え、ちょ――」
咄嗟に俺は止めようとするが、もうそんな声を出すことにすら失敗して。
かんな荘から離れ、道の向こうへ去っていく姿だけが、視界の中で動いていた。
――逃げ、やがった。
それを遅れて理解したとき、思わず片手が虚空を切るように前へ泳いだ。
だがそこで止まる。その先へ進めない。
俺に、追う権利があるのかさえもわからない。
わからないのに――それでも足は、前に動いていた。
ほんの少しずつ。這うよりは多少マシという程度の速度で、前に進んでいく。
さきほどまで叶が立っていたかんな荘の前まで着くと、ふと視線が横合いの建物へ。
「…………」
この春から越してきた俺の城。
かつて、俺と叶はふたりで揃って、あの部屋にあった壁を破った。
今にして思えば、ばかばかしくもふざけた話だ。
普通だったら入居早々、退去を命じられていてもおかしくないことをしている。
まあ、種を明かせば初めから――あの部屋に本当は壁はなく。
その程度のものなら簡単に、当時の俺なら突き破った。
「……っ、ああ――くそ!」
だから俺は、気づけば走り出していた。
俺には何もわからない。
わからなすぎて、自棄を起こしているだけかもしれない。
でも。それでも俺の手は伸びたのだ。
それでも俺の足は動いたのだ。
だったら追いかけよう。追いかけていって捕まえよう。
それならきっとできるから。
「待っちやがれ、この……やろっ!」
さすがに、足の速さでは叶に負けない。
いや。似ているとは思っていたが、それでも違いはあるということだ。
少なくとも男女差以上に、叶より俺は運動なら得意だった。
とはいえ住宅街の路地は複雑だ。先に走り出した側を追うのは道順が難しい。
――関係ない。
たぶん俺は、叶の行った方向ならわかる。いやわからない。
わからなかろうが辿り着くだけだ。考える意味もない。ただ進めばいい。
――それだけで。
どうせ、行き遭うのが俺たちだ。
「っ……見つけた!」
少し走ったところで、道の向こうに叶を見る。
俺が姿を発見した瞬間に、叶が振り返って追いつかれたことを察知していた。
相変わらず、馬鹿みたいにそういうタイミングは合うらしい。
「はあ……っ!」
と、だから俺はその辺りで、走る速度を少し緩めた。
ここまで駆けっ放しでそろそろ苦しい。これ以上は脇腹に来る。
それに、叶の目指す先なら――俺にももうわかっていた。
「…………」
やがて、俺はある公園に辿り着いた。
いつかも訪れたその場所。ある意味では、俺たちにとっての思い出の地。
まったく、つくづく公園という場所に縁がある。
俺の青春は、もうそういうこじんまりとした規模でしか動かないのかもしれない。
そんなことを考えながら中へと入った。
――公園の向こう。
いつかと同じ場所に立って、友利叶がこちらを見ている。
俺は、彼女から少し離れた場所に立ち止まって。
少しの時間があってから、ふと――彼女のほうからこう切り出した。
「……よ、よくぞここに辿り着いた」
「いや……、なーに言ってんだお前」
別に逃げたわけではないという新手の主張だろうか。
これだけでそれがわかる俺も、なんというか大概な気はするが。
「うるさいな……」
言って叶は、少しだけ恥ずかしそうに視線を落とした。
耳が少し赤いのは、寒さのせいにしておくとして。俺は言う。
「……おっす、叶」
「ん。……おっす、未那」
「……」
「……」
「……なんか言えよ」
「なんかってなんだよ」
「呼び出したのはお前のほうだろ?」
当然の言葉。それに叶は、ふっと眉根を寄せて。
「……来るわけないと、思って呼んだんだけど」
「なんだそりゃ? 俺の理論に呼ばれて行かないシステムはねえよ」
「あるでしょ。ほかに優先すること、未那にはいくらだって」
「――ほかにって、」
「もっと優先しなきゃいけないことが、あったはず。そうでしょ?」
「それは……」
否定しようとして、――それ以上の言葉が出てこなかった。
確かに叶の言う通りである。本当なら、来るべきでさえなかったとすら。
「なんで来るかなあ……来なかったらこんなこと、言わなくって済んだんだけど」
叶は、呆れたように息を零した。
吐息が夜に溶けて消える。それを追うように顔を上げて。
「でもまあ、来ちゃうのが未那なのかな。思えば前も――いつも未那はそうだったし」
「……悪かったな」
「悪くはないよ」
叶は静かに首を振って。
こちらを見て、静かに言った。
「悪くないから困ってる」
「…………」
「というか、だいたい何もかも悪いのはわたしだし。だからこんなことになってる」
「いや。それは――」
「――いいの。いいから。わかってる。いや、ごめん。わかってないかも。でもいい」
「馬鹿。何も……いいことなんかないだろ、こんなの」
「あはは……かもね。それ言われたら何も返せなくなるや。確かにそうだ」
小さく言って、叶は笑った。
違う。そうじゃない――そうじゃないのに。
俺には何を言えばいいのかがわからない。
わかるのは、今こうして吐いている言葉が違うということだけ。
間違いだけを理解して、正解をずっと見出せない。
「まったく。秋良に言われなきゃこんなこと絶対しなかったのになあ……」
ふと叶は夜空を見上げた。
その視線を、つられるように俺も追う。
「上手くいかねーや」
言って、夜空に手を伸ばす。
背伸びをするように。遠くの星を思うように。
「楽しい文化祭を……かわいい彼女をほっぽり出して、こんなとこまで来るんじゃねーや」
あるいは恨み言のような台詞を。
俺にではなく、彼方の空へと溶かしていく。
「ほーら。未那のせいで、見えなくなっちゃったじゃん」
「……俺は」
「じゃなかったら、やっぱりわたしは終わらせようって。そう思ってたのにな」
「――――」
「そりゃいろいろ言われたし、だからいろいろ考えたけどさ。いくら悩んでも迷っても、結局わたしは同じ結論にしか届かないんだよ。いちばん大事なものは変わってない」
言って彼女は、その手を下げて俺を見た。
まっすぐな視線は、きっと嘘を許さず問いかけるもの。
「さなかとは違う。わたしは、欲しいひとつだけがあればよかった」
――ねえ?
と、彼女は確かめる。
「未那も、そうでしょ? そうだって信じてる」
「……俺は、」
「あの日の約束は今も覚えてる。わたしはそれを忘れない。未那は違うの?」
「――違わない。あれは……俺にとっても大事なものだ。それは揺らいでない」
少なくとも、俺もそれだけは断言できる。
だが叶は、そんな俺に呆れたような笑みを向けて。
「じゃあ来ちゃダメじゃんか。……本当にばかだなあ、未那ってば」
そう、優しすぎるほどの笑みで零した。
言葉に反して、とても大切なものを
「だって来たら言わなくちゃいけない。聞かせたくない言葉を、傷つけてでも。わたしにそんなことさせるなよ。ひどいなあ……ひどいよ。わたしに約束を、破らせたんだ」
「待て、叶。俺は――」
「うるさいなあ。聞く耳なんて持つもんかよ。今はわたしのターンなんだから、わたしが言いたいこと言うだけ。そこで黙って聞いてなよ。今から、未那に、酷いこと言うから」
それは、まるで謳うように。
公園を舞台に、夜空の星を照明に。
「今から約束破るから。後悔しても後の祭り」
観客はなく。ただ月だけが見下ろす世界で。
――友利叶は告白する。
「わたしはね。未那のことが、大好きだよ」
それはきっと、彼女にとっては罪を明かす言葉で。
約束を白紙にして、誓いを無下にして、己が哲学からさえ破門する言葉。
最後の最後まで秘めておくべきだった――裏切りの告白だった。
あの日、耐えきれず零れた想いとは違う。
それは真実、彼女が自らの意志で過去を破り捨てる宣言。
――あまりにも。
悲しいほどに救いのない、全てを終わりへ向かわせるための――。
「ごめんね」
一発の銃弾が、俺の
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